大将に船を出してもらったのは、すっかり日が昇った真昼。
「時間が時間だから、何も期待するなよ」と、大将はぶつぶつ言っていたが、当直明けのふたりは、病棟を離れて開放感を味わうだけで十分だった。
 船にゆられて、竿をふる。風を切る音がなり、竿先がしなる。糸が陽を反射して短く光る。海の重さを感じながら竿を引き、リールの音を鳴らす。黙々と繰り返し投げていると、あっという間に日が暮れてきた。
「しぇんしぇい(先生)方は、仕事はできても、こっちは、さっぱりやな〜」
 バケツの中の数匹のカサゴを見て、大将は笑い、舵を切って港に向かう。

「お前、どうする、これから。西果にこのまま残るのか?」
 唐突に尋ねる大輔の表情は逆光で見えない。
「勧誘した張本人がこう言うのは何なんだが、やばいよ、西果中央病院。乗っ取られるかもしれん」
「誰に? 過疎化のボロ病院を誰が買う?」
 小佐々には失礼だが、健は思わず、再度口に出した。
「まあ、そうだな。日本人は、普通、そう思うやろうね」
「えっ、外人ね?」
「うーん。国籍はどこかなあ」
 日本の病院を外国人が直接経営することはできないし、外国人医師は日本の医師免許がなければ、通常は診療できない。今のところは。
「長崎の中華街近くのクリニックばかり集めとるビル、知っとるやろう」
「うん。でも、いくつかある」
「4つ。オーナーが同じで、そのオーナーが西果中央病院を買うという噂がある」
「日本人?」
「国籍は知らないけど。かなり話が具体的になってきているらしい」
「しかし、買ってどうする?」
「医療ツーリズムって、知ってる?」
「外国人の金持ちを呼んで、検診させて、ついでに観光させるやつだろう」
「そう」
 上海から長崎まで飛行機で1時間35分。長崎空港から大村湾を船で突っ切れば、西果まで20分だから、上海から2時間前後。ソウルからなら、その半分の時間で済む。東京に行くよりはるかに近い。

「西果で医療ツーリズム? バカな」
 東アジアから1、2時間程度で西果に着く。すぐに、半日か1日、検診を受ける。PETなどを導入し、遺伝子検査までそろえることが前提ではあるが。夕食は病院で夕日を眺めながら、西果の魚料理。次の日はすっきりした気分で、ハウステンボスに行ってオランダ気分を味わい、夕方に佐賀県の嬉野あたりの温泉に泊まってジャパニーズ気分を味わい、ヘルシーな豆腐料理とグリーンティーを満喫して、本国に帰る。
「1泊2日で十分だが、2泊3日だったら雲仙でゴルフとか。日本で最初の国立公園にある最古のパブリックコースときたら、絶対人気でるよ。足をのばして、阿蘇、別府、桜島だって行ける。彼らは火山が好きだからね。3泊4日なら、京都やUSJ、ディズニーランドだって可能さ」

「確かに人気が出そうだな。しかし、国同士の関係が、ずっと安定しないじゃないか」
「そりゃあ、そうだけど、あっちの富裕層や中間層は、自国の医療を信用してないからねえ。どこの国でも大金持ちは国なんて信用してない。自分の金と自分の体が一番大事さ。高い精度で安心と健康を得られるとなると、国同士の仲が少々悪かろうが、来るさ」
 誰かの受け売りだろうか、大輔は妙に興奮して続ける。
「カジノ法案、知ってるだろう?」
「長崎ハウステンボスにカジノを誘致する、あれか? 新聞で見たような」
「そう。ハウステンボスに日本で初めてのカジノを作り、それに合わせて医療特区に指定するという噂もある。それも、日中韓の友好の印として国際特区に」
「でかすぎる話やね。しかし、大輔、誰からこんな話を聞いたんだ?」
 大輔は健の質問には答えずに、言った。
「この構想を進めるために、シンポジウムがその布石になる」
 市長が開催を熱望していたシンポジウム『西果の医療を考える市民の集い』。7・23の大水害から30年目の節目を記念してという名目だが、西果中央病院を売りに出すキックオフミーティングとしたいらしい。病院の講堂で災害記念式典を行った後、シンポジウムを続けて行う。もう2週間後に迫っている。
   
 船が桟橋に着くと、黒塗りのレクサスが横付けされていた。
 道具を片付けて、大将へ礼を言った後、大輔が真顔で健を見た。
「よく聞け。今から人に会う。『はい』とだけ言え。それ以外、絶対に何も言うな」
 20年近い付き合いとなる優しい大輔が、初めて健に命令した。ただならぬ気迫を感じた健は、黙ってうなずき、桟橋を上がった。運転手が後部座席のドアを開けると、皮の香りがした。
「こんばんは。矢倉、健先生……、ですね」
 太い男の声が健の鼓膜を震わせた。

 レクサスは神ノ島を周回する。
 神ノ島の西側、外海は東シナ海へと広がり、夜の波は高く海鳴りがしている。東側の内海は静かな大村湾で、湖面のように月を浮かべている。その男は、外海のように激しく、時には内海のように優しく、健を揺さぶっていた。

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