「へ〜、でもさ、今の時代ならさ、介護する親を持たない、いい嫁になるのにね」
 誰かに対する当て付けなのか、さくらが皮肉っぽくいう。
「多恵ちゃん、調子どう?」
 洋子が同級生を心配し、娘のさくらに聞く。さくらは、曖昧に返事する。まだ精神病院に入院しているようで、うつ病に認知症も出てきて、診断はくるくる変わり、ぐちゃぐちゃでドン詰まりのようだ。
「そう、いちど会いたいわね」
「いつか連れてきますよ。それよりおばさんのコイバナ(恋話)もっと聞きたい」
 さくらは友恵を見ながら言った。
 健は思った。この遠足は物語を引き継ぐ場なのだろう。
 渡辺洋子の物語をさかのぼると、東京での暮らし、友恵の出生、近藤との道ならぬ恋、大水害の夜、苦学した頃、谷山スミ子や紺野多恵との青春時代、孤児院での幼少期、父の死、母の死……。それらは、はるか遠い遣唐使の時代から描かれ続ける「神ノ島」という大きな絵の小さな小さなピースとなっている。それは、友恵やさくらに引き継がれるのだろう。
 そして、ここで生まれた彼女たちもまた、自分たちの物語を塗り重ねてゆくのだ。
   
   ※   ※   ※

「女の恋は上書きって、言うでしょう」
 棚田祭りの次の日、健はさくらに呼び出された。
 三十男の恋は予想以上に未練がましいと、健は自分自身思っていた。20代の時のように、次に向かって立ち直る治癒力や気力がない。そんな状態の健を、さくらは神ノ島の防波堤に呼び出した。
「上書き。意外に当たっているかもしれないと思うの。たいした恋愛経験はないけど、不思議と、昔の恋をどんどん忘れてゆくの。郷田のことさえ。もしかしたら、学生時代、健先輩に恋したことがあったような気もするけど。ここ、カッコ笑いネ。どっちにしても、覚えてないから」
 笑えない健をよそに、さくらは防波堤から下りて砂浜を歩く。

 夏の神ノ島の海岸は賑わっていた。そろそろ日が落ちようとする中、家族連れやカップルはパラソルを閉じて、帰り支度を始めている。カヤックはまだ何艘も浮かんでいる。
「山田君? いい人よ。誠実で、迷いがないわ。この街を本当に好きみたいね。『付き合ってくれ』みたいなニュアンスの言葉はあったわ。それもいいと思う。でも、まだ学生だしね。彼には未来があるから」
 健はゆっくりと流れる神ノ島の時間に抗い、今まで考えてきた言葉を機関銃のように並べた。さくらは、聞いてはくれた、途中までだったが。
「ごめんね、気持ちはありがたいけど。先輩って、ついこないだまで、ヘタレで、お調子者で、責任感のない、なんていうかフリーターというか、流れ者だったよね。昔の映画のように、そういう流れ者と町の女が恋に落ちて……という展開もアリと思ったわ」
 高倉健じゃなくて、主演・矢倉健か? さくらは、笑わなかった。

「でも、あなたは変わったの。友恵ちゃんや山田君をしっかり指導し、自分の腕を磨くために恋敵?の郷田に学び、医局をまとめて見学会を開いた。市のおっさんたちとも交渉できるようになり、地元の人の信頼を得て、田植えイベントを大成功させた。あなたは気づいてないけど、成長したのよ」
 結構なことじゃないか。おまえ、ダメンズが好きなのか? やり手が嫌いなのか? じゃあ、どんな男が……。健の言葉は、砂浜を上滑りしてゆく。
「はっきり言うわ。あなたは、郷田と同じなのよ。いつかはこの島に満足できなくなる。一旦、成長のスイッチが入ると、上へ上へ。より大きく、より高くって、果てしなく追い求めるのよ。自分が一番なのよ。自分にしか興味がないのよ。仕事では、そういう人は頼もしいわ。でも、男としては興味ないの。ワンパターンっていうか、つまらない。全然、魅力がない。わたし、無理なのよ、そんな人」

 さくらがそう言ったのは、夕方のちょうど6時だった。なぜなら、夏の間流れる、神ノ島の町内放送が流れてきたから。
「女の恋は上書きで、男の恋はフォルダーを作るって言うでしょう。恋や仕事のフォルダーを沢山作るのが男。その数を競うのが男なのよ。だから、心配しないで。いつか私のことも、健センパイの中では小さなフォルダーになるのよ。あなたは、それを懐かしむときがいつか来るのよ。でもね、私はフォルダーを作れないの。いつも上書き。今しかないの。今は、さゆりと仕事で十分。だから、さよなら。ごめん、もう、家に帰らなきゃ。ホントに、さようなら」
 女の子の声がスピーカーから流れる。
『ごちょうないの、こどもかいの、みなさん、6時になりました。おうちに、かえりましょう』
 その後に流れるオルゴールのメロディーが、今日はやけに切なく聞こえる。

ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
   
   ※   ※   ※

 翌日、健は西海医科大学第一内科の副医局長、学生教育担当の山口大輔に電話を入れ、マッチング対策について聞いていた。
「7月は何すれば、よかと〜?」
「健ちゃん、変わったなあ。仕事人間?」
「仕事は裏切らないからな」
「はは〜。また、ふられたな」
「仕事のできる男は嫌われるのさ」
「ハハハー。今度は誰? まあ、でも、また次があるよ」
 同期の優等生の慰めが健を逆なでする。
「いいよ、もう女の話は。だから、この時期のマッチング対策を教えてくれ」
「まあ、この時期、焦って動くと、逆効果よ。ウザイって言われる。釣りでもしてのんびり構えたら」
「釣りねー」
「久しぶりに一緒にやろうか」
 こんな話が実現することはほとんどないのだが、今回はめずらしく、数日後に実現した。