オ〜、どよめきが起こる。片山は、自信満々に説明を始める。
 西果の研修医は、非常勤で日給月給制。1日8000円で、月に約16万円。当直手当が1回1万円。勤勉手当などがついて月に約25万円。ボーナスはなく、年収は税込み300万円弱。健の研修医時代は、大学病院の給与は月15万円程度だったので、だいぶましではあるが、今のご時勢、これじゃ誰も来ない。大きな声では言えないが、時給にするとコンビニより安いだろう。
 そこで片山は、地域医療手当という名目で、月に10万円、年120万円を上乗せした。当直料も平均的な額とした。これで年収は税込み420〜450万円。今の大学病院の300万円よりはいいが、民間病院ならば平均程度という感じだろうか。健としては正直、「もらい過ぎ」と思うのだが。
 しかし、さくらは「中途半端はダメ。やるならトコトン」と主張。結局、片山が市の財務部とのやりとりで、病院の黒字転換を条件に、ボーナス込みで年収500万円までは可能ということになった。
「お〜、すごい。俺も研修医になろうかなあ」
 久保山が笑いをとってくれた。医学生たちの顔は、一様に満足げに見えた。
 副院長の緒方が挨拶した、最後に健が力強く締める。
「ぜ〜ったい、君たちに損させない。伸ばしてやる。俺も、指導者として、まだまだ。だけど、がんばる。ぜひ、一緒に、働こう。ここで!」 
 
   ※   ※   ※

 居酒屋「山」での懇親会の後、棚田周辺の民泊所へ学生を案内し終えて、小佐々と健は、3階の個室で眠る渡辺洋子を見守っていた。赤い輸血バッグが点滴台にかかり、緑の数字がモニターに浮かぶ。血圧や脈拍は安定している。ふたりは部屋を出て、ナースステーションに座る。
「どうしますか? インオペですが、大学で一度、ケモ・ラジを」
 手術適応はないが、化学療法と放射線療法を大学で行うべきと、健は提案した。
「そうだなあ。しかし、PKのステージ4だし、予後は……」
 小佐々は消極的だった。いつもの彼なら膵臓癌の末期でも、50代なら大学へ紹介するのだろうが。健は、再び洋子のCT画像を出そうと、パソコンの前に座った。
「遅くなりました。すいません」
 玄海総合病院から駆けつけた友恵が、息を切らせて入ってきた。彼女の後ろの窓には、すでに暗闇が広がっていた。

   ※   ※   ※

 その夜遅く、友恵は、電気が消えた居酒屋「山」の勝手口のドアを開けた。
 医者として、洋子の治療方針を小佐々や健と話した後、娘として、病室でずっと洋子に付き添い、宿舎になっている「山」へ帰ってきた。
 健は大将から言われたとおり、アラカブの味噌汁に火を入れておにぎりを温め、疲労困憊でカウンターに腰掛けた友恵に出してやった。友恵は小さく礼を言い、大きなお椀で顔を隠すように、だまって味噌汁をすすった。お椀を戻し、「おいしい」とつぶやいた頬は濡れていた。
 健は何も話さなかった。いや、話せなかった。
 医者として病気についてならいくらでも話せる。しかし、母ひとり娘ひとりで生きてきた友恵に、この状況で何かを語れるほどの経験を自分は積んでいない。友恵はもう一度味噌汁をすすった後、おにぎりに手をつけず、意外な話を始めた。
「きっと、小佐々先生もショックだったと思うんです」

 健にとっては、かなり衝撃的な話であったが、黙って聞く。
「小佐々先生は多分、おかあさんのことを今でも好きなんだと思う。だから、今まで独身だったんじゃないかしら」
 淡々と友恵は語る。
 それは、また、あの夜にさかのぼる。
 30年前の大水害の夜。
 バブルの頃だった。都会の学習塾が、夏期講習を神ノ島のリゾートホテルで競い合うように行っていた。雨が降り出したあの夜、東京の学習塾の生徒たちがそのホテルで食中毒にかかり、13人が西果町立病院へ搬送された。その中に中学3年生、15歳の小佐々少年がいた。
「ウソ〜!」と、さすがに叫びそうになるところ、健はかろうじて咳払いでごまかした。

「わたし、確かめたんですよ」
 友恵は、祖母の亡くなった記録を発見した医事課の奥のあの小さな部屋で、古い入院患者台帳から「小佐々英雄」の名前を見つけていた。
 あの夜、准看護婦として働いていた洋子との出会いがあっただろう。しかし、なぜか、そのことを母からも小佐々からも聞いたことはない。
 小佐々は、長崎で医大生となった。ラグビー部を優勝へ導いた後、彼は突然大学を休学した。その理由は、家庭の都合ということになっていたらしいが、本当のことは誰にもわからない。ただ、その時、23歳の小佐々が東京にいたことは間違いない。関東出身の彼が東京にいてもおかしくはないが、その場所が何と、御茶ノ水の洋子の店「アンバー」だったのだ。
 当時、友恵は7歳。小学校の帰りによく店に立ち寄っていた。店は繁盛して、数人の学生アルバイトがいた。はっきりとした記憶ではないが、その中に小佐々をときどき見かけたような気がする。洋子は33歳だった。
 小佐々と洋子の間に何かがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。そんなことは、誰にもわからない。本人たち以外には。
「誰にも言わないつもりだったけど……。なぜか話してしまいました」
 友恵は健の顔を見た。健は「わかっている」とうなずき、人差し指を唇に当てて、誰にも話さないことを誓った。
「聞いてくださって、ありがとうございます」
 風が強くなってきたようだ。海鳴りが聞こえる。
 人にはいろんな生き方があり、そして愛し方があるのだろう。話し終えた友恵は、ようやくおにぎりに手をつけてくれた。友恵の細い指を見ながら、彼女のこれからの人生に幸多からんことを祈らずにはいられなかった。

※ 「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。

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