(イラスト:北神 諒)

 棚田の下から白い大きなつばの帽子がゆっくりと上がってくる。
 ほっそりとした白いパンツをはいた長い脚が一歩一歩確かめるようにあぜ道を登って来る。その足元には白いユリがぽつぽつ咲き始めている。しばらく登ると彼女は足を止め、自分の来た道をふり返る。
 ふり返るたびに長い髪がふわりと広がる。西果の人じゃないことはすぐに分かる。白い帽子が似合い、日よけの白いストールをおしゃれに巻ける女性はここにはいない。
 誰だろう。皆の視線が集まった時、スミちゃんが麦わら帽子を振った。
「こっちよ、洋子ちゃん、こっち!」
 渡辺洋子。研修医・渡辺友恵の母親、お茶の水の喫茶&スナック「アンバー」の洋子ママだ。

 しゃがんで土手の白いユリを取ろうとしていた洋子はあご紐をほどき、ゆっくりと帽子を取った。大きな瞳がこちらを向いた。彼女は立ちあがり、同級生に手を振ろうと右手を胸まであげた。が、様子がおかしい。ふらついている。
 危ない! 
 膝がゆっくりと折れて前のめりに倒れた。白い帽子が飛んだ。
 洋子が転がる。
 ガードレールもなにもない農道の脇から田んぼの方へごろごろと回転しながら落ちてゆく。悲鳴があちこちで上がる。
「洋子ママ!」
 小佐々が真っ先に飛び出した。斜面を転がるように降りて、あぜ道を下る。健は棚田を囲むアスファルトの農道をまっしぐらに走った。

「救急車!」
 女傑の声が響く。あの倒れ方からすると意識消失だ。最悪、頭か心臓か。今日は土曜日、当直医は誰だったっけ。走る。土手を滑る。
 洋子はあぜ道の脇の水路に片足がひっかかり、仰向けに倒れている。健と女傑と小佐々が囲んだ。
「健ちゃん、プライマリサーベイ開始!」
 女傑の指示に従い、外傷患者に対する初期対応の仕方を型どおりに始めた。
「わかりますか、お名前は?」
 唇がわずかに動くと、口の中の泥を出そうと咳き込む。
「A、気道はなんとか確保できてます」
 健は彼女の顔面に顔を近づけて息をしていることを確認しながら、左手の橈骨動脈を探した。ややゆっくりだけど、弱く触れる。胸、足を見る。白い服は泥だらけだが、表面からの出血はない。
「B、Cも確認OK。目立つ外出血はありません」
「健ちゃん、グッジョブ!」

 斜面からずり落ちないように、徳永と住田が洋子の体を支え、頭と首は小佐々が固定している。
「洋子ママ、聞こえるね?」
 小佐々が大声で繰り返すと、洋子の左手が動き、みぞおちのあたりを押さえた。
「ああ、小佐々ちゃん」
 洋子は、目をつむったまま答えた。
「私、どがんした? ここは……」
 声ははっきりしていて、落ちついたものだった。少し安堵したのか、小佐々の顔面の筋肉がゆるんだ。
「ママ。しっかり」
 今度は囁くような小佐々の声が健にとっては以外だった。百戦練磨の小佐々が感傷的になっている気がした。女傑が時計を確認する。
「濡れているところはタオルで拭いてあげてね。でも、身体はむやみに動かさんで。この状態で救急車を待つよ」
 視線を下に向ける。
「どこか痛いところはないですか? 手足、動きますか?」
 洋子は「大丈夫」と答えて、腹に手をやり、足首を動かした。