【第2章までのあらすじ】日本の最西端・西果(さいか)市の西果中央病院は医師不足で崩壊寸前。状況改善のために初期研修医の確保を命じられた内科医矢倉健(ヘタレ)は、美人で勝ち気な看護師・紺野さくら、地域研修で赴任した初期研修医・渡部友恵、オタク医学生・山田拓也のアシストを得て、西果中央病院の大PR作戦を始めることになる。
※第3章第7話まではバックナンバーからご覧ください。

 三十数年前の7月23日、西果町は夕方から激しい雨に見舞われていた。
 西海医科大学の新任外科教授・近藤に転びそうになるところを抱きかかえられた準看護婦の洋子は、礼を言って、更衣室をそそくさと出てきた。準夜勤が始まるので、救急室の横にある詰所へ小走りで向かう。腕時計は17時をまわっていた。途中でいつものように売店に立ち寄り、休憩の時に食べるお菓子を買おうとすると、売り子が声をかけてくる。同い年で神ノ島小学校の同級生、スミ子だ。
「洋ちゃん、準夜?」
「そうよ」
「気をつけてよ。さっきテレビで大雨警報が出たよ」
 奥の方から、売店の店主であるスミ子の母親の声がした。
「洋子ちゃん、今日は雨のひどかけん。夜は歩いて帰ったらダメよ。危ないから」
「わかったー、ありがとう」
 待合室では、何人かが、車の迎えを待っているのだろうか。立ちすくんで外を見ている。受付の職員も、心配そうに外を見ている。
普段なら窓から防波堤の向うに海と空が見える。この時間帯なら段々と琥珀色に染まってゆくのだが、今日は景色が一変している。窓は水が途切れることなく流れ、激しい雨音が鳴り響き、辺りは真っ暗となっている。
 外の様子を見て、洋子とスミ子は黙って立ちすくむ。お釣りを渡すスミ子の手は固まっていた。
 すると、叫び声が聞こえた。玄関の方だ。
 ドアが開き、ずぶ濡れの若い女を抱えた初老の男が横殴りの雨と共に入って来た。何か叫んでいる。何を言っているのか、洋子が確かめようとした瞬間、暗闇となった。
「あっ、停電」
 スミ子が耳元でつぶやく。
 闇が一瞬のうちに病院を支配した。スミ子が握った小銭がこぼれ、何かの始まりを暗示する不吉な金属音が響く。
 白衣姿の洋子が近づいてくると、また男が叫んだ。
「洋ちゃん! 産まれそうや、先生ば呼んで!」
 稲光に浮かび上がって、男の顔と女の顔がわかった。
「先生を呼んで、急患室に」
 洋子は受付に叫び、玄関の脇に並べてあった車いすをもってきて、妊婦を抱え上げてのせた。
「しっかりして、多恵ちゃん!」

 その妊婦は紺野多恵。
 やはり神ノ島小学校で洋子とスミ子の同級生であり、去年の秋に長崎市内へ嫁ぎ、出産のため最近里帰りしたばかりだった。数日前、防波堤を散歩する多恵とばったり会った時、予定日はまだひと月先と言っていた。
 多恵は右手でお腹を押さえ、左手で洋子の白衣の袖をつかんだ。ずぶぬれの白のワンピース。表情は見えなかったが、「ありがとう」と言う冷静な声が聞こえた。暗闇の中、救急室へ運ぶ。
「多恵、大丈夫、大丈夫」
 質問か励ましか。あるいは自分に言い聞かせているのか。言っている洋子自身にもわからない。逃げ出したいと思った。
「大丈夫」
 多恵の言葉を聞き、自分が叫びそうになる衝動を抑えた。数分が経ったが、数十秒だったかもしれない。
「洋ちゃん、早よう。先生ば、先生ば、呼んで」
 父親はさらにうろたえていた。一方の多恵は冷静で、洋子に「大丈夫」と繰り返していた。先生はなかなか来ない。雨の音に混じり、多恵の口から喘ぎ声が漏れる。洋子は急患が来たら必ずするようにと主任から教わったように、体温と血圧と脈を測っていた。
 准看護婦の自分には他に何もできない、次はどうすればいいんだろう。
「主任、先生、早く来て」
 祈るように心の中で繰り返した。
 救急車の音が聞こえる。
 遠くと思ったら、すぐに車が砂利を踏む音がして、急患室のドアがガタガタと開き、懐中電灯の光が洋子と多恵を照らした。横殴りの雨が入って来る。
「おおみず」「水害」「神ノ島のホテル」「食中毒、十名以上」「先生は!」
 消防隊が担架を担ぎ、叫んで入って来た。

(イラスト:北神 諒)

 その後の洋子の記憶は断片的なものだ。
「もう三十年前の話だし、ちゃんとは覚えていない。後で人から聞いたいろんな話と、自分の体験が混じりあってるの」

 子どもたちは、半分は泣き叫び、イタイイタイと呻いて腹を押さえていた。
「大丈夫、大丈夫」
 教会の暗闇で祈るような状況が、一瞬にして野戦病院に変わり、洋子は混乱して、呪文のように「大丈夫」を唱えていた。消防隊から何かを叫ばれたが反応できず、次第に意識が薄れてきて、体の力が抜けていった。洋子の手が多恵の車いすから離れ、ゆっくりと倒れそうになった時、ぐっと腕をつかまれて引っ張り上げられた。
「気をつけて。しっかりしろ」
 上半身裸の近藤が懐中電灯を持ち、裸足で立っていた。