そして3月、健はアンバーへの階段を飛び上がるように駆け登ってきて、洋子に握手を求めたという。
「その時、あれを置いていったのよ」
 洋子は棚に並んだボトルの間に置いてある小さなラグビーボールを指さした。「だから、ずっと覚えているのよ。健ちゃん先生」
 彼女は、カーキ色のラグビーボールを健に手渡す。
「そうでしたかね。すいません。覚えてなくて」
 予備校時代は勉強と模試の単純な生活で、ある意味で人生の空白期間だったためか、記憶が少ない。しかし、それは間違いなく自分が書いた字だった。
『洋子ママ、ありがとう! コハクカレー最高! 長崎でがんばります! 矢倉健』
 自分の原点があるとしたら、ここなのかもしれない。健は愛おしくそのボールを撫でた。

 洋子ママはふたりの食器を洗うと店の看板を下ろし、白いコートのボタンを外して、髪を下ろした。琥珀色のウイスキーに大きな氷を入れて、グラスを鳴らす。
「幸せ? 単純よ。好いたところに住んで、好いた仕事をして、好いた人と暮すことさ」
 久しぶりに会った娘が聞いてきた抽象的な質問に、母は饒舌になって話す。タイムスリップのように現れた健が、母と娘の間の微妙なすき間を埋めているようだった。
「よかったわ。おかあさんは幸せなのね。東京が好きな場所で、この店が好きな仕事なのね。あの人も東京にいるし。でも、ちょっと痩せた? 具合悪いところない?」
 1年半ぶりに会う母に、友恵は娘としてでなく、医者として確認するように聞き、母は苦笑いする。友恵にとっては故郷の東京に残してきた母は、娘を気遣う。
「心配せんでよか。まあ、なんとか生きて来たし、あんたも一人前になったからね。そろそろ店も区切りをつけようかとも思っている。私の好きなようにするけん、あんたも自由にせんね」
 友恵はうなずき、母に話す。神ノ島のこと、居酒屋「山」のこと。母の同級生の売店のスミちゃん、紺野さくらの母、多恵のことを。

「おばあちゃんとも会って来た」
 洋子は少し首をかしげた。
「渡辺文子。おかあさんのおかあさん」
「私を産んで死んだんよ」
 自分の母は自分を産んだために命を落としたと、洋子は思っているのかもしれない。そんな言い方だった。当時の西果の医療では仕方なかっただろうと、医師の友恵は付け加え、渡辺家に関することを話し続ける。
 それは、友恵が初めて看取ったトミさんが教えてくれた話だった。トミさんは認知症ではなく肝性脳症だったので、調子がいい時ははっきりとした記憶がよみがえっていた。担当医である友恵は夕日の見える病室で、神ノ島や渡辺家の歴史をトミさんから聞いた。その中には、母、洋子が知らない事実も混じっていた。
「渡辺松之助という人は大阪の実業家で、そん人が神ノ島に来て、炭鉱ば、堀り当てた」
「いつ頃ですか?」
「さあ、覚えとらんが、戦争の前さ」
 昭和の初めであろう。友恵がトミさんから聞いた話に、洋子はうなずき、時には訂正し、追加する。それは、洋子自身の半生の物語だった。

 友恵の祖父、渡辺四朗は渡辺松之助の遠縁で、大阪から神ノ島に来て、地元の漁師の娘、文子と結婚した。文子は洋子を生んで死亡。四朗も洋子が小さい時に落盤事故で死亡し、洋子は文子の親族に育てられた。一家はクリスチャンで、洋子の希望もあり、小学生から中学生までは修道院の孤児院で育った。
 シスターになろうとは思わなかったので、中学を卒業すると教会の紹介で、西果の診療所の看護助手見習いとして住み込みで働いた。昼は働きながら、夕暮れ時には西果からブルーの長崎バスに乗り込み、長崎市の定時制高校で学んだ。高校を卒業した後は、働きながら長崎の医師会の看護学校に通い、准看護師の免許も取った。
 22歳の時、診療所の老先生が引退して2代目になるのをきっかけに退職し、老先生の勧めで西果中央病院の前身、西果町立病院に勤めた。勤めながら看護師の試験を受けられる制度があり、何かしらの明るい未来が自分に待っているような気がした。
「きばらんばたい、洋子ちゃん」
 久しぶりにお世話になったシスターにこのことを報告に行くと、励ましてくれたことを覚えている。
「その頃は、本当に、一生懸命がんばったとよ」
 洋子は目を細めて笑う。