感傷に浸る暇はない。友恵は健の指示で、死に至る経過の血圧や呼吸回数の推移を電子カルテに打ちこみ、死亡確認の時刻を入れる。余った薬の量を確認し、薬局へ返品書類を書く。退院指示を出すと、医事課が会計処理を始める。次は死亡診断書だ。
「私、初めて書きます」
 健が一つひとつ教え、友恵は記入事項を埋めていく。死亡診断書を書くことは、臨床研修の目標のひとつにもなっている。書きあげると、さらに健が指示する。死亡診断書のコピーを2部取り、1部をナースステーションの棚の中にあるファイルの中に、もう1部を1階の医事課の後ろの書類倉庫の中のファイルに保管し、台帳に記入する。
「何の意味があるんですか?」
「さあ、分からんけど、そうなっている」

 医事課は出生や死亡の統計を出すためにデータを管理し、保険など様々な書類の申請に対応するためのデータは病棟が管理している。最近は、すべてのデータを電子化して中央管理し、専門のクラークが書類を作成して医者の負担を軽減してくれる病院が多くなってきた。玄海総合病院は当然のごとく、各病棟にクラークが配置されているそうだ。
「西果(さいか)中央は、まだ昭和の病院さ。クラークなんて、しゃれた人はおらん。だから、医者の雑用は山ほどある。この書類を持ってゆくこともそうだけど、採血も自分でやらないといけない時もあるし、患者さんを検査室に運んだり……」
「そうですね。ここに来て、何でも自分でやるんでびっくりしました」
 健の頃は、雑用の一番の担い手が研修医だったのだが、最近の若手はそれを嫌う。
「でも、雑用をやることでいろんな仕組みとか流れを覚える。研修医にとっては悪いことじゃないとさー。仕事に雑用なんてものはなか。それがいつかは役に立つ」
 友恵はトミさんの死亡診断書のコピーを持って、1階の医事課に走った。この間、さくらは、トミさんの顔にお化粧をほどこす。最近はエンジェルメークと言うようになった。

 外来受付の後ろ、窓のない部屋に友恵は初めて入った。つるりとはげ上がった光田明夫課長が出て来て、「ご苦労様です、死亡診断書ですね、こちらです」と案内してくれる。10人ほどの職員が、ひたすらパソコンに向き合ってキーボードをたたいている。
「へえー、病院にこんな所があるんですね」
「レセプト作成時期なんで、残業です」
 月末の数日は、ほとんど午前様になるらしい。レセプトとは診療報酬を請求するための明細書のこと。これを作らないことには、病院にお金が入ってこない。
「へえー、事務の方も大変ですね」
 友恵は感心していた。医者と看護師以外の職員が何をしているかなんて考えたこともなかった。光田課長は、さらに奥のドアを開けた。真っ暗な小さい部屋は少しカビ臭い。電気のスイッチを入れると、ファイルがずらりと年代順に並んでいる。
「あとは、分かります。自分でやりますから」
 光田課長は出て行った。友恵は今年の台帳にトミさんの名前を書き、死亡診断書をファイルに入れて棚に戻した。昭和**年の出生台帳が目に入った。母が生まれた年だ。台帳を取りだして、ページをめくった。1月から順に記載されている。
 6月23日。母名、渡辺文子。父名、渡辺四朗。子の名前、洋子。女児、満40週、3400グラム、52センチ、単胎、5時27分と並んでいる。備考の欄に「出産後死亡」。友恵は、黄色く変色した紙に残る五十数年前の文字を優しく撫でた。文子という人が自分の祖母。この病院で死んだんだ。友恵は台帳を戻し、スイッチを切った。暗闇に吸い込まれてしまいそうな深さを感じて、急いで部屋を後にした。