そこで郷田は、褒めるテクニックをいくつか示す。褒めて(positive)→叱って(negative)→褒める(positive)PNPというアプローチだ。
 郷田は女性スタッフを妻に見立て、PNPを使った1分間指導法のお手本を示す。

夫:シュークリーム、ありがとう。頑張ったな(P:褒める)。君はこの味をどう思う?(自己評価させる)」
妻:初めて作ったから、ちょっとねー。自信はないわ」
夫:初めてにしては上出来だよ。しかし、一般的に、シュークリームのクリームは中に入っているよね。(一般的な事実を教える)。これは、クリームが外にはみ出している。それに、皮が硬すぎるね。焼き過ぎだろう(N:叱る)。でも、そこを改善すれば良くなるよ。君は努力家だし(P:褒める)。店はもう少し考えた方がいいと思うけど、応援するよ(支持する)。愛してるよ、ハニー」
妻:ありがとう、あたしも愛してるわ。

 爆笑。会場が笑いで揺れた。
 郷田の軽快なトークとコミカルなジェスチャーは、アメリカのコメディードラマを見ているようだった。日頃、厳しい現場で働く医者たちは一様に、PNPに強烈なインパクトをもらったようで、次のゲームにも皆、積極的に参加していた。
「それじゃあ、次のお題はこれです」
 完全に参加者の気持ちをつかんで、郷田が続ける。
「あなたは指導医です。ある研修医が学会に出すスライドを作って来た。超マズイ。下手くそ。誤字脱字は多いし、科学的にも問題のある記載がある。しかし、その研修医はやる気満々です。さて、あなたはどうやってフィードバックする?」

 郷田のセッションは拍手喝采で終了。その後、隣の部屋で立食懇親会となった。
 朝から缶詰状態で、さすがに皆疲れていた。机に座り、聞いたことのない教育理論や教育手法を学び体験して、頭も体も飽和状態。だが、アルコールが入ると参加者達は解放感と共に冗舌になり、徐々に盛り上がる。郷田が健のところへやって来た。
「どうでした? 私のセッション」
「すごいですね、郷田先生。先生がカリスマ指導医ってことがわかりましたよ」
「やあ、お恥ずかしい」
「どこで、こんなこと学んだんですか」
「実は、カナダのトロント大学に1年間留学したんですよ。医学教育を学びに」
 医学教育という分野があることを健は初めて知った。
「あっちと日本の教育ってやっぱり違うんですか」
 郷田はワイングラスを片手に腕組みをした。
「基本的にはそんなに変わらないと思います。ハンバーガーの作り方とソバの作り方の違いくらいですかね」
「だいぶ違いますね」
「いや、美味しいものを作りたいという目的は基本的に同じですよ。マニュアル化された手法を組織的、全国的に展開するか、職人技として親方の背中から学ばせるか」
「やっぱり、向こうのやり方がいいんですか?」
「いい、悪いというより、そういう流れということでしょうね。新人医師の研修の仕方が全国的にフォーマット化された訳ですから、教え方もフォーマット化するしかないでしょうね。フォーマット化という言葉が嫌いなら、標準化ですね。スタンダード化。グローバルスタンダード化の流れなんですよ。新医師臨床研修も、マッチングも、指導医講習会も」
 田舎に住む医者もグローバル化の波に飲み込まれているのか。健はビールグラスを口につけた。人気の郷田はいつのまにか誰かに囲まれて、向こうへ行ってしまった。健は料理を皿に取り、壁際に並ぶ椅子のひとつに腰をおろし、ビールを飲んでいた。

「失礼」
 朝の主催者挨拶に立った近藤和仁が、健の皿から半分に切られた皮のついたバナナを取り、ゆっくりと皮を剥いて口に入れる。五分刈りの白髪頭の頭皮と顔面の筋肉が動く。健は挨拶のタイミングを失っていた。
「矢倉君はいくつだ?」
「35になります」
「小佐々君は元気か」
「はい、大変そうですが、頑張ってらっしゃいます」