夫の船、桜丸が? 多恵はすぐに窓から外を見た。確かに湾内で船が一隻、波に流されている。
 多恵は急いで教会の側の階段を下った。不安に怯えながら港で待っていると 、大将の船が短いロープで桜丸をつなぎ、えい航してきた。ようやく港に着いた桜丸に多恵が乗り込んだ時、夫の目はうつろで、手足は動かずだらんとしていた。
「おとうさん、しっかり」
 夫の体をゆする多恵に、大将が「動かしたらダメだ」と叫ぶ。担いで病院まで運ぼうとしたが、素人が動かすのは危険ということになり、誰かが救急車を呼んだ。救急車が来るまで10分か15分くらいであったろうか。船底に寝かせたままにして、周りで年よりたちがオロオロするばかりであった。当時、AEDなど設置されておらず、救急処置を学んだ者も1人もいなかった。

 救急車が着き、西果(さいか)中央病院まで1分程度。朝早く来ていた外科医がまず対応し、外傷ではなさそうだと内科医を呼んだ。その間に外科医は点滴をつなげ、採血して、心電図をとっていた。引き継いだ内科医は心電図を手に取った。
「心房細動。頭か」
 収縮期血圧も180を超え、血栓が頭に飛んで脳梗塞や出血を起こした可能性がある。内科医はすぐに頭部CTを行い、出血がないことを確認。その間に考えた。ここで診るべきか、大学に送るべきか。
 多恵は内科医から、何時頃倒れたのかを聞かれた。
「朝5時頃家を出て、多分、桟橋でいろいろ準備して船を出したと思います。そして、7時過ぎに山本のおばちゃんから電話がかかってきて」
「5時から7時の間。まだ、間に合うかもしれない」と内科医は言ったそうだ。彼はカルテを見ながら、すぐに西海医大病院へ電話をかけた。さくらの父の検診データも見ながら、状況を報告する。
「心原性の脳梗塞疑いの患者さんです。最終確認時間は本朝5時。意識レベルGCSで3、3、4。血圧は180前後で安定、脳出血の既往なし、抗凝固剤の使用なし、潰瘍の既往なし。CT上は明らかな梗塞像は映ってません。はい、はい、そうです。到着は9時30分前後でしょうか。そうですか、ぎりぎりですか、了解です」

 すぐに大学へ搬送することとなった。当時、ドクターヘリの基地は離島にあるのみで、西果には整備されていなかった。基地があったとしても、その日の天候でヘリを飛ばすのは無理だっただろう。
 その内科医は消化器内科の専門医で胃や大腸の内視鏡が上手と評判だったそうだが、脳梗塞の治療は得意としない。というよりやったことがなかった。5年前の当時、既に脳外科医や神経内科医は西果からいなくなっていて、超急性期の脳梗塞は搬送するしかなかった。発症4.5時間以内の脳梗塞ならば、つまった血栓を溶かす血栓溶解療法(tPA静注療法)の適応となる。しかしそれ以上たつと固まってしまった血栓を溶かすことはできない。この時間をゴールデンタイムといい、ここで治療すると抜群に成績がいい。成績を左右するのは医者の腕だけでなく、時間なのだ。

 夫を運ぶ救急車に多恵も乗り込んだ。ゴールデンタイム内の到着を目指し、救急車は大きくサイレンを鳴らして、リアス式のくねくね曲がった海岸沿いの片道一車線の道を走った。何もなければ間に合う。多恵は、自分も搬送されたことを思い出していた。自分は上手く助けてもらった。だから、きっと大丈夫。

「でも、父には運がなかった」
 さくらの言葉に、おかみさんもうなずいた。
 その日は月曜日で、25日の締め日。そして天気予報が外れた局所的な大雨と風が吹き付けていた。いつもより車が多くなった朝のラッシュに加え、峠の衝突事故が片道1車線をふさいだ。渋滞が数キロにも及んだ。反対車線を通るが進まない。
 やっとの思いで着いたが、タイムアウト。ゴールデンタイムには届かず、血栓溶解療法はできなかった。脳梗塞は発症から4.5時間以上経過すると脳細胞へのダメージが強く、血管を再開通させても効果が期待できない。逆に脳出血を合併する確率は高くなる。大学病院の脳卒中の専門医師たちは、できる限りの保存的な治療を行った。

「先生たちには、ホントに感謝しているわ。母も私も」
 しかし、父が元にもどることはなかった。血栓が飛んだ脳の場所も悪かった。脳幹部あたりがやられていた。
「ある意味、死ぬより悪い結果となった」
 博多の帝大病院の救急部に当時勤めていたさくらは連絡を受けたとき、看護師としてそう思ったそうだ。父は結局、意識ももどらず、半ば植物状態となった。