小佐々が神ノ島ゴールドの入ったグラスを置いた。
「他に、何かある?」
「住むところが欲しいです」
「宿舎?」
「はい。私、当直室に泊っているんです。今で2週間ですけど、結構限界です」
「そこらあたりも整備しないとなあー。しかし、官舎を建てる予算はないなあ」
 大将が出汁巻き卵を持ってきて友恵に言った。
「とりあえずなら、2階が空いてるよ。今、健先生が寝ている部屋でもよし。他に釣り客用の部屋が5つある。気に入ったら使っていいよ」
「えっ、ホントですか!」
「ここ、いいわよ。私も準夜勤のときなんかサユリをあずかってもらって、そのまま泊めてもらうことが多いのよ」
 さくらの家と大将の家は、親戚以上のつながりのようだ。

★ 研修医の宿舎を用意する

 大将の案内で早速、院長の小佐々と事務部長の片山と友恵がカウンターの中に入り、奥にある階段から2階に登っていった。友恵がふらつき、階段を踏み外した。大将がふりかえって「落ちんごと、しっかり握って」と言った。その言葉が友恵に、何か懐かしく切ないものを思い起こさせるが、それが何なのかはわからなかった。
 宴会は夜遅くまで続いた。
 酔った会話の中で、研修医や看護師を集める案、病院を再建する案が次から次に浮かび消えた。数年ぶり、たった1カ月の地域研修にやって来たひとりの研修医が、間違いなく灯りをつけてくれた春の夜だった。

※  ※  ※

(イラスト:北神 諒)

 薄いカーテンからの日の光で、健は目が覚めた。天井が違う。どこだ? ああ、大将の店の2階か。窓を開けると、真下に砂浜、向うに穏やかな海が広がる。赤いカヤックが1艘、その後に青いカヤックが何艘も続く。日曜のカヤック教室だ。今日は天気が良くて気持ちがいいだろう。伸びをすると、ガラガラと隣の部屋の窓が開いた。
「おーい、やぐらしか先生」
 サユリが窓から顔を出した。
「おはよう。お母さんは?」
 後ろでさくらの声がした。
「サユリ、朝ごはんよ。先生とお姉ちゃん、起こして下りて来なさい」
「おねえちゃん起きて」と言っているのが聞える。友恵がまだ寝ているのだろう。
 健はもうしばらく海を眺めて、布団をたたみ、階段を下った。すると、階段の途中の小さな踊り場で友恵とサユリがしゃがんでいる。

「なんばしよっと」
「ト・モ・エって、書いてあるの」とサユリ。ふたりは、階段の太く黒い木の手すりをのぞき込んでいる。
「トモエですよね」。友恵は手すりの横木を指差しながら言った。
 カタ仮名で彫ってある「トモエ」の文字のそばには、「巴」「友枝」「朋絵」「知恵」などトモエと読める文字が彫られている。いくつかはすり減って消えそうになり、読み取れない。
 さくらとおかみさんも何事かとやって来た。口々に「トモエ」とつぶやく。
「私の名前なんです」
「知ってる」
「なんで私の? 昨日の夜、気づいたんですよ」
 おかみさんは、泊ったお客さんが彫ったんじゃないか、友恵の家族が彫ったんじゃないかとか、記憶を掘り起こそうとしたが、すぐ飽きたようだ。「さあ食べて、食べて」と、皆を1階の座敷に急かした。

 テーブルには、白ご飯とこの地方ではアラカブと呼ばれるカサゴの味噌汁、卵焼き、ウインナーが並んでいた。
「いただきます」。健は久しぶりのまともな朝食に米粒を飛ばしながら、がっついた。
「どっちが子供かわからないわ。友恵先生、今日からここが研修医宿舎になったから、謎解きもゆっくり考えればいいよ」
「そうですね。あとで当直室に行って、荷物を取ってもどって来ます。ああー、2週間、当直室に缶詰はきつかったなあー」
「きついって、おまえなあ。研修医の分際で、たいした働きもせんで」
「はいはい、そこまで。今日は日曜日。休みの日までガミガミ言わない」
 友恵がさくらに聞いた。
「この辺りに、渡辺姓は多いんですか?」
「沢山あるわよ。あちこち渡辺ばかりよ。おばさん、どれくらいある?」
「20軒以上はあるやろう」と声だけ返ってきた。おかみさんは夜の仕込みを始めている。天気がいい日には朝から釣りにでかけている大将も、そろそろ帰ってくる時間だ。
 話題は神ノ島の話になった。健や友恵にとっては、謎多き島である。

※「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。