「おててー、つないでー」
 ふたりは夕暮れの海岸沿いの防波堤沿いの道を歩いた。前には、健やさくらが歩いている。数分歩くと、二車線の短い橋がみえて、向こうに山がみえる。友恵はサユリの手をひいたまま立ち止った。
 ここが神ノ島か。
 あっけなく母の故郷に着いてしまった。橋のたもとには、神ノ島の案内版と昭和の大水害の慰霊碑があった。橋の右手には砂浜が広がり、その後ろに防波堤が弧を描いて向こうまで続く。その先端に倉庫が3つ並んでいる。健がカヤックの倉庫だと教えてくれた。橋の左側にも防波堤は続き桟橋へつながる。小さなレジャー用の小舟や漁船がすし詰めのようにぎっしり並んでいる。防波堤の後ろには民家やコンクリートの建物がポツリポツリと立っており、山の中腹には教会が見える。
「教会があるから神ノ島なんですか?」
「さあー」
 誰も興味がなさそうで、生半可な返事だった。その時、友恵の目に何かの光が入った。教会の十字架が輝く光を反射させていた。小さなサユリが言った。
「ほら、あっち」
 ふりかえった友恵は息をのみこんだ。
「海に沈む夕日って、生まれて初めてかもしれない」
「その割には感動してないね。結構これ見て、泣くんよねー、女の子」
「健先生『この夕日が俺からのプレゼント』なんて言うんでしょ、いやだー」
 健とふざけあうスタッフたちの声を聞きながら友恵は夕日を見ていた。
 綺麗だ。夕日は海に吸い込まれるんじゃなくて、溶けるように沈んでいくんだ。
友恵は、感動していないわけではなかった。ただなぜか懐かしく思えるのが不思議だったのだ。

「神ノ島にも景気がいい時はホテルもあってカラオケボックスもあったんじゃけどねー。今じゃここが唯一のカラオケボックスになっとるとよ」
 おかみさんが小鉢を持ってきて友恵に説明していた。土曜なのに他の客はいない。貸切になりそうだ。少し改まって友恵に頭を下げた。
「今日はすいませんでしたね。うちのばあちゃん、診てくれて。」
 カウンターの奥へ引っ込もうとした時、健はおかみさんを引きとめた。
「トミばあちゃんを来週火曜日に連れて来て。すいませんけど」
「友恵先生が、MRIっていう検査を2週間後に予約してくれたけど?」
「もうひとつ検査を追加したいけん、朝ごはん食べさせんで火曜日に連れて来て」
「どこか悪かですか」
「まだ検査しないと何とも言えん。とりあえず、火曜日に」
「わかりました」
 また何度も頭を下げておかみさんは引っ込んだ。健たちの一行は、座敷のテーブルを2つつなげて陣取っていた。大将が出してくれた刺盛りには、メバル、イシダイ、シャコ、コウイカ……。近海ものが大皿に鮮やかに並んでいる。
「わー、美味しそう」
 サユリの声を聞いた大将が嬉しそうに鉢巻を締め直し、野菜を切りだした。

 健は、割りばしの袋から箸を出しながら友恵に聞いた。
「トミさんの長谷川式、何点?」
「17点でした。20点以下は認知症の可能性が」
「うん、微妙だなあ。今日の血液検査はどうだった?」
「えっ、分かりません」
「なんで? 見とらんのか?」
「だって、大学まで救急搬送して帰ったばっかりだったし……」
 既に友恵の目には涙が潤みだしている。なんで夕日じゃなくて、ここで……。
「やぐらしかー!」
 健は箸を投げた。
「見ようと思えば、1分で済むやろうがー。検査データはその日のうちに見るのが当然やろ。医者の基本、臨床の鉄則だぞ」
 声が大きくなるにつれて、友恵と若いスタッフは共に顔がこわばり、沈んでいった。
「すぐ、病院に帰れ!今日の外来患者さんの検査データを全部見て俺に報告しろ」
 サユリが母親にしがみついた。しかし、健は止まらず、加速して行った。
「おまえは、研修に来たんだろう。神ノ島観光に来たわけじゃなかろーが!」
 包丁の音が一瞬止まり、引き戸がガラガラとなる。走り去る靴音。

「やっちまったー」
 静まりかえった店にさくらの声が響く。
「ああー、やっちまったああー。やぐらしか先生」
 サユリがかわいく繰り返した。

※「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。