さくらは、できる看護師だ。
 童顔で頼りなさそうに見えるが、判断力があり、行動は素早い。しかも、患者にも医者にも厳しくズバズバと切り込んでゆく。
「お酒ばかり飲んじゃダメ。娘さんが心配しいるよ、いい加減にしなさい」
「先生、もっとスピードアップして。2時間待ちですよ」
 こんな感じだから、太田看護部長や小佐々院長の大のお気に入りで、3月にヒラで採用されたがすぐに主任となった。最近は雑用が増えて責任もとらされる管理職になりたがらない人が多いせいもあるのだが、異例の出世だ。比較的若いスタッフの多い3階東の内科病棟主任に抜擢されたが、外来が忙しい時は、手伝いにも行く。いつも先を読んで的確に連絡してくる。
「OK、すぐ行く!」と言って、健はPHSを切った。
「友恵先生、あとのワクチン注射はまかせたから、ちゃんとやれよ」
 言い放って立ち去ろうとしたが、またも潤んだ視線を感じる。小児科外来の看護師をひとり呼んで、友恵と一緒に予防接種を続けるよう頼み(実際は「このお嬢さん研修医と一緒に注射して!」と怒鳴って)、病棟への階段を駆け上がった。ひとつ飛ばしで登りながら、「教えるなんてヤダヤダ」とつくづく思っていた。

 胸痛を訴えたのは太った中年男性だった。苦悶する顔、汗で濡れたワイシャツ。病棟の処置室で心電図をつけたまま、さくらが点滴の針を刺していた。
「ニトロは舌下させた? OK。3分前舌下ね。胸は少し楽になりましたか?」
「ちょっと楽になりました、先生……」
「大丈夫ですよ、心配しないで。ホットラインにつなごう、救急車準備して。心配しないでくださいね。ヘパリン流して。バイアスピリンも準備して」
「はい」「はい」
 さくらと若手の看護師が素早く反応する。
「先生、モニター持ってきました」
「ありがとう、奥さんは控え室かな……。軽い心臓の発作を起こしているみたいですね、長崎の大学病院へ運びますからね、大丈夫ですよ。トロポニンの結果出た? いいよ、1リットルで酸素流して。モルヒネを……」
「ホットラインがつながりました」
 さくらが赤い携帯を健に渡す。
「もしもし、西果中央病院の内科の矢倉です。お世話になります。48歳男性の下壁梗塞と思われる患者さんを今から送ります、意識清明、バイタル安定してます。初発と思われます。心電図は今からファックスします。薬? 薬は何か飲んでますか? 何も飲んでないようです。大学到着は……」

 健の周りで、さくらと若手看護師と医事課の事務がてきぱきと動いている。
 慣れたもんだ。循環器内科の医師2人が昨年末に突然退職したようで、直後に赴任してきた健は大変だった。狭心症や心筋梗塞などの超急患が運び込まれても誰も対応できず、やれる処置をして転送しようとするが、どこに運ぶかが決まらず、何度か危ないことが起こった。
 実際に搬送途中の死亡も出た。現在、裁判となる可能性があり、死亡した患者の家族からカルテ開示の請求が出ている。自分たち(関わったのは、健ら医師数人と看護師数人と事務数人だが)としては、精一杯のことをやったので、これで訴えられたらしょうがない。
「訴えられるのは俺なんだから、お前らは心配しなくてもいいさ」
 院長の小佐々はそう言ってくれるが、裁判沙汰になるとおそらく、この病院の医師と看護師の複数が一斉に辞職するだろう。病院が一気にヘル(hell)化する危険はある。
 別のトラブルも並行して起こっている。ある患者が自分で運転し、神ノ島に架かる橋の欄干に衝突して死亡した。自殺か事件か事故かわからず司法解剖をしたが、結果は病的な大動脈瘤破裂だった。
 西果市福祉保健部が西果中央病院の勤務医の疲弊に配慮し、「救急車を適切に使用しましょう。軽い症状の時はむやみに救急車を呼ばないようにしましょう」という啓発運動をしているので、救急車を呼べず、自ら運転して病院へ向う途中だった。家族はこう主張している。これも裁判となるかもしれない。
 小佐々の働きかけがうまく行き、今は大学病院の循環器内科の医者へ直接つながるホットラインができて、救急車で運ばれるシステムとなった。超緊急の時はドクターヘリも来てくれるように整備された。夜間や天候による制限はあるが。

 健はホットラインで話し続ける。
「今から送ります。大学到着は……」
 友恵が処置室に入って来たのを見て、健はホットラインへ告げた。
「到着は、ちょうど13時頃と思います、それと研修医をひとり同乗させます。ありがとうございます。よろしくお願いします」
 電話の向こうは、健と医学部同期の第1内科副医局長・山口大輔。彼は循環器内科の専門医で、今日はたまたまホットラインの当番だった。処置室の外に出た健は小声に変わる。
「大輔、山本の大将が釣りに行こうって言ってたぞ…そうなんだよ、小佐々ちゃんも大変、大変…その件もあるから、近いうちに話そう、じゃあ」
 ホットラインを切って処置室に戻り、モニターを見る。バイタルは安定。
「友恵先生、救急車に乗って大学病院まで行ってくれ。頼むよ」
 人員が少ないので、搬送救急車にドクターが同乗することは常ではない。今日は土曜日で、人員はさらに少ない。友恵に頼むしかないが、目は潤んで、今にも泣き出しそうだ。やれやれ、大きい綺麗な病院で大事に育てられたって、使えないじゃないか。
「ここは戦場だ、泣くな。腹をくくれ!」
「でも、何かあったらどうするんですか!」
「あんた、それでも医者? 救急車に乗らないなら、今すぐ、玄海へ帰れ!」
「でも……」
「こないだ女傑、いや長谷先生から救急の講習を受けたんだろう。先生から何を教わったんだ」
「冷静に、ベストを尽くす」
 瞳から涙がこぼれていたが、唇はそうつぶやいた。友恵は踵を返して走り去った。
「やぐらしかー!」
 俺たちが若い頃はまだましだった。怒鳴られたって、「この野郎!」と思ったもんだ。それをばねに成長していた。やれやれ、研修医教育なんて、本当にアホらしい!

※「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。