30歳で研修医となった小佐々は、そこでも伝説を残した。
 大学全体の研修医約100人を組織化して「研修医クラブ」なるものを作り上げ、宴会や旅行や合コンを企画した。昔の大学病院は縦割りだったから、内科や外科や小児科……と、それぞれの内部での活動は盛んだったが、診療科や部門間の交流は皆無。横串を刺したのは小佐々が初めてだった。
 最終的には、当時は奴隷(きつい、汚い、危いの3K仕事を罵倒されながら行い、絶対服従、低賃金)と言われた研修医の不満をまとめあげ、大学病院の病院長へ提出した。白い巨塔と呼ばれていた世界では、前例のないことだった。
「白い巨塔を倒した研修医」。小佐々はしばらくの間、こう語り継がれていた。
 健はそのことについて、小佐々の行きつけの居酒屋「山」で聞いたことがある。大将がその日出してくれたチヌの塩焼きが、小さいが身が締まった絶品で、小佐々を冗舌にした。
「伝説? そんなの嘘、嘘。皆で集まって飲んでたら、たまたま病院の幹部の飲み会も同じ店でやってたんだよ。それで、当時はみんな若いからさあ」
 勢いで病院長に文句を言おうということになったそうだ。
「どうやったと思う?」
 小佐々は目の前にある割りばしの袋をつまんで健へ差し出した。
「これなんだ。懐かしいね」

 今にも病院幹部に殴り込みをかけようと勢いづく同期の研修医たち。小佐々はそれをなだめ、割りばしの袋の裏に言いたいことを書かせた。
「ふざけるな、偉そうに、現場を知れ」
 当時、病院長とは名ばかりの名誉職であった。
「検便、検尿は研修医の仕事じゃない」
 当時、研修医が患者の便や尿をとり、検査をしていた。
「土日のバイトを減らして給料を上げろ」
 当時、大学病院は日給制で月に十数万円。それを切ることもあり、土日はほとんどバイトの当直に行かされ、結局休みがなかった。
「研修医は看護婦の召使いじゃない」
 当時、怖い看護師が沢山いて研修医に命令していた。病棟のヒエラルキーの順位は、医学生>教授>教官>看護師>看護助手>研修医だとされていた。医学生が一番偉いのは、医学生がいるから大学病院が存在するという理屈だったような気がする。研修医になることは、昨日までの最上層からどん底へ落ちることを意味した。
「生協を夜10時まで開けろ」
 当時、病院にコンビニはなく、研修医の仕事が終わる頃には生協は閉まっていた。出前を頼める時間でもなく、運が良くて医局に残っている弁当やカップラーメンをすするしかなく、嘘のような本当の話だが、栄養失調で倒れる研修医もいた。
 小佐々は目を細めて懐かしむ。
「まあ、どの業界でも新人がきついのは同じと思うけどね。そんな不満を皆が割りばしの裏に書いて、隣で宴会をしている病院長と取り巻きのところに行って……」
「どうしたんですか?」
 健の質問に答えたのは大将だった。
「健先生、それは有名な話でここに来るお医者さんがよう話しとる。小佐々先生が割りばしの袋を全部集めて直談判に乗り込んで行ったら、さすがの病院長も隣に百人近い研修医が集結していたから仰天したらしいですよ」
 大将は神ノ島沖でこの時期によくとれるメバルを、刺身にして出してくれた。

 大将が聞くともなく聞いて覚えた小佐々の武勇伝によると、病院長はかなり懐の深い人で、殴り書きされた割りばしの袋を1枚1枚読んだそうだ。そして、3つの束に分けて、こう言った。
「君たちの言っていることの3分の1は正しい。3分の1は間違っている。残りの3分の1には答えがない」
 研修医の小佐々は病院長の話を正座して聞き、したたかに反論した。
「病院長、隣には百人の研修医がいます。ここで病院長が何もして下さらなかったら、明日の朝まで飲み明かし、もしかすると、この割りばしの束が辞表の束になるかもしれません」
 一介の研修医が病院長に恐喝まがいの意見を具申するなど、この時代は当然皆無(さすがに今でも皆無だろうが)。だから、病院長にはそれなりに大きなインパクトを残したようだ。
「そして、どうなりました?」
 健は武勇伝の結末を急かした。
「当時の院長、近藤和仁先生がポケットマネーで焼酎をおごってくれた。そして、万歳三唱で終わり。笑えるだろう」
 小佐々は今、その焼酎を飲んでいる。当時の幻の焼酎は、今ではコンビニで手軽に手に入る。西果の麦焼酎「神ノ島」。健も気に入っている。
 小佐々はその日、近藤和仁の名前を何度も出した。近藤の人間的魅力にいまだに惹きつけられていて、その後の小佐々の運命も変えたようだ。
 1カ月後、健はその近藤に出会うこととなる。

※「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。