※前回(第3回)までのお話はバックナンバーからご覧ください。

(写真はイメージです)

 矢倉健、34歳。出身は東京。1年浪人して、西海医科大学に入り、無事に何とか6年で卒業後、母校の第一内科へ入局(いわゆる入社)。入局後は、半年ごとに様々な病院を回り、腕を磨いた。
「腕も磨いたけど、遊びも磨いたなあ」
 健と大学の同級で入局も同期、エリートコースを歩む第一内科副医局長の山口大輔は茶化す。ドクターヘリを飛ばす600床の救急病院から島の診療所まで、健は医局長に言われるがまま、九州各地に散らばる関連病院を転々とした。
 いわゆるドサ回り専門医。いつも突然医局長から電話がかかってくる。ちなみに医局長とは、医局における医業以外の雑務のほぼ全てを担当する役回りで、中小企業の総務&人事担当をイメージしてもらえばいい。
「健ちゃん、ごめん。次は五島。女医さんが産休で」
「よかですよー。釣りできますし」
「ごめん。次は福岡の郊外の小病院。ちょっと、前任者が院長とトラブって」
「よかですよー。中洲が近いし」
「次は、島原の私立病院。御大が急に亡くなって、後継ぎが帰るまで」
「よかですよー。ソーメン好きですし」
 こんな感じでありとあらゆる病院を回っていたが、それなりに楽しかった。医局にとって便利な駒と健は自覚していたが、実は扱いにくい駒でもあった。
腕は良いので患者からの評判はまずまずの健だったが、時々上司と衝突する。やる気があるわけでもないのに、世渡り上手の上司が当たると、短気な健は徹底的にやり合っていた。
「そんなこと、あんたの仕事だろうが!」
 一方、やる気満々のイケイケ上司に当たり、難題を押し付けられると、「無理、無理っす」と逃げ回る。
 だから半年も経つと、関連病院側から医局長に電話が入る。
「矢倉君は元気で患者からの評判もいいけどね。うちの雰囲気には合わないよ。彼は若いから他の病院でチャンスを作ってやったらどうかな」

 便利だが、“やぐらしい”駒であった健が6年目の30歳の時、医局長がいつものように電話をかけてきた。
「すまんねー。誰も希望しなくて。健ちゃんに頼むしか……」 
「どこですか。遠慮なく言ってください」
「日本じゃないんだけど」
 九州水産大学の実習船に乗り、東シナ海を半年航海。船酔いもするし、人に会えないし、給料も安い。大学の医者にとってキャリアの足しにはならないから、人気がないのは当然だ。
「よかですよー」
「大丈夫か、船は男ばっかりで、キャバクラもないぞ」
「はい。甲板でラグビーでもやりますよ」
 その船がシンガポールに着いた時、父が倒れたと連絡があった。急いでシンガポールから東京の病院に駆けつけた健に、母は嘆いた。
「一番大事な時に。身内に医者がいても役に立たない」
 父は脳梗塞だったが、幸いにも、すぐに病院に搬送されて治療も奏功し、後遺症はほとんど残らなかった。リハビリが始まる頃、ちょうど商社勤めの兄の海外赴任が決まった。父も母も気弱になっていたこともあり、健は医局を辞めることにした。「親に何かあっても長崎は遠すぎる。生きているうちに親孝行を」と、兄の嫁からは泣いてせがまれた。
 当時の医局長にそう話すと、
「それは、しょうがないなあ」
 ぼやきはされたが、慰留はされず、教授に会うこともなく、あっさりと退局(退職)が決まった。医局にしてみれば、研究はしたくない、留学も教育もしたくない健のような医者に「駒を辞める」と言われれば、「そうですか」としか言いようがない。面倒くさい駒がいなくなり、半分はホッとしていたのだろう。

 健は東京へ帰り、フリーター医師として働くことにした。毎月、数回の関東近辺の病院での当直を行い、昼は都内で外来業務を行う。入院患者を持つ病棟業務はしなかった。土日や正月、お盆の当直をするとそれなりのお金になり、一人身としては不自由なかった。病院からの呼び出しもなく、●×▲委員会といった会議もなく、患者に対する責任や義務もない。ドサ回りをしていた頃に夢見た気楽な生活であったが、いざそうなってみると寂しかった。
 先生、先生と呼ばれて患者や看護師から頼られることもなく、特に何をしたいということもない。仕事以外は年老いてくる父母と世間話をするくらいの淡々とした生活を過ごしていたが、周りは段々とうるさくなってきた。
「そろそろ、ちゃんと腰を据えて働いたらどうなの」
「そろそろ、お兄さんみたいに結婚して、子供を持たないと」
 そのうち父の病気は回復して嘱託で職場復帰、兄夫婦は海外から戻り、母は孫の世話で忙しくなった。東京でも何となく居場所が見つからないと感じていたとき、同期の大輔が突然東京に出てきて、西果の話を切りだした。