海北記念病院ブースは、病院名の看板以外に何もない。他の病院が所狭しと掲示している宣伝ポスターや研修プログラム、研修医の楽しげな写真など何も貼っていない。
 白い殺風景な壁を背に薄いサングラスをかけてスーツを着た男が1人ぽつんと座っている。しかし時々学生がやってくる。それも男子学生が1人ずつポツリポツリと入ってゆく。不思議だ。中州の裏通りにある、コアな客がついているピンク系の佇まいを感じさせる。
 健とさくらはブースに入り、エントリーシートを出した。薄いサングラスの下で目が左右にゆっくりと動いた。
「付き合ってるの、君たち?」
 健はあっけにとられて口が開きそうになったが、さくらが切り返していた。
「はい。結婚はしていませんが、子供がいます」
 健の口が開いた。何を言い出すのか、こいつは。
 男は不思議そうに首をかしげた。まずい。ニセ学生とばれる。
「研修医になったら結婚……、の予定です」
 健がなんとか付け加えると、その首は縦に大きく動いた。
「なるほどね。順番がね」
 逆になったけど良かったとでも言いたそうに、男は何度かうなずいていた。
「金、困ってるだろう」

 男はさくらだけを見た。さくらが深く大きくうなずいた。
「ひと月、20万出すよ」
 さくらのくるりと巻いたまつげが上がった。彼女は眼鏡を取った。  
「奨学金さ、卒業まで月20万円だす。ひとりね。ふたりで確実にうちの病院に来てくれると確約するなら月に40万。今、タイムセールだから、なんと50万!」
 男はニヤリとした。スーツの下にロレックスの時計が光る。
「医学生は、金がかかるだろう?」
 男が言うように、医学生のお金の苦労は実際多い。実家が流行っている開業医なら苦労はない。しかし、クラスの3分の1から半数程度は、普通の年収の家庭の子弟だから奨学金をもらう。公的な一般奨学金なら月5万円くらいで、年間60万円で、6年間で360万円の借金を抱えることになる。他にも様々な奨学金がある。例えば、月20万円、年間240万円+α、6年間で1000万から2000万円の奨学金。一定期間(だいたいは10年前後)、指定される離島やへき地で働けば、数千万円がチャラになるという制度もある。しかし、縛られることを嫌う医学生には人気はない。
 医大は学費が高く、教科書代も半端でない。1冊1万円などめずらしくない。実習が始まると忙しくバイトも行けないという事情もあり、普通の医学生は一般の学生と同じようにお金の心配を常に抱えている。

 男は続けた。
「奨学金はすぐに回収できる。なにせ、うちの給料は、月にイッポン」
 背を少しまげてささやき、人差し指を立てた。
「イッポンって……」
 健とさくらは、身を乗り出した。
「大きい声では言えない。なぜかと言うと、国が、新臨床研修制度では、研修医の給料は30万円程度が望ましいと言っているから。しかし、俺に言わせれば、この資本主義の自由経済の日本で国が給料を決めるのはおかしい。国と研修病院連合が談合しているだけさ。うちは、その3倍以上、イッポンだぜ」
 男は義憤を吐き出すかのように持論を展開し始めた。資本主義、自由主義の日本じゃないか。マッチングなんて、市場を開放した規制緩和そのものじゃないか。なんで国が給料を決めるのか。
 そして、最後に、サングラスの下で笑うことなく、音の立たない手拍子をした。
「月にイッポン、イッポン、チャチャチャ。ふたりでニホン、ニッポン、チャチャチャ」
 ニヤリとして男が言った。
「うちに入る? 看護師も若くて綺麗どころばかり」
「は、入ります!」

 健のみぞおちに肘を食らわせてブースから引きずり出したさくらは、休憩スペースのいすに健を座らせた。
「先輩、変わってないですよねー。何にも考えないで、調子にのって。結婚するとか、入りますとか。口から出まかせで。このノボセモン」
 今度は軽くボディーブロー。さくらが言うノボセモンとはお調子者という方言だが、どこか憎めないというニュアンスも入っている。
「ああ、俺は、昔からノボセモンよ。しかし、さくらこそ、子供がいるとか、お金がいるとか同情を買うようなことを、よくもヌケヌケと」
 健も返した。
 さくらは、憮然としてバッグからスマホを取り出す。画面を健の前に突き出す。
画面には女の子がピースサインで映っている。
「サユリ」
 彼女が何を言っているのか、健はわからなかった。驚いたのは次の言葉だ。
「わたし、ホントに子供いるんだよ。シングルマザー。お金要るの」
 どうリアクションを取ればいいか、健はさらにわからなくなった。2週間前、たまたま同じ職場となり、8年ぶりに会った大学の後輩に子供がいて、それもシングルマザー。
 自分は、この間、ほとんど変ってない。30代半ばなのに相変わらず生活感のない「根なし草」と、さくらから呼ばれるのは当然だろう。彼女はとてつもない感情とエネルギーをこの8年間に注ぎ込んだに違いない。

※「フルマッチ」は毎週月曜に掲載します。