矢倉健は大きくため息をついた。自分は圧倒的な負け組だ、完敗。
 健はパイプいすに座り、通りすぎるリクルートスーツの群れを見つめている。机の上には白紙のエントリーシートと病院パンフレットが山積みされていた。
 『研修医募集! 日本最西端の西果中央病院』の文字が寂しく躍る。西果と書いて、サイカと読む。西の果ての小さな病院の医師である健は、あたりを見渡していた。ここは、1000人を超す医学生と病院関係者で埋め尽くされている博多国際会議場。
 3時間たっても健のブースに立ち寄る医学生はいなかった。ただのひとりも。
 一方、隣の玄海総合病院のブースは、ずっと黒山の人だかりが続いている。
「博多の真ん中で働いてみませんか。あなたの夢を応援します」
 呼び込みの声に次々と学生が引き込まれてゆく。順番待ちで並ぶ学生たちがチラリチラリとこちらを見るが、何の興味も示さない。無関心な無数の視線に、
「お前は最低だ、消えろ」 
と言われているようで健はつらかった。白衣を着て肩に聴診器をぶら下げて、患者でなく医学生をじっと待つ自分。悲しすぎる。なさけない。
 なんで俺がこんなことをしなければならないんだ。わざわざ日曜日に自腹で交通費まで払って来てるのに。悲しさを通り越し、腹が立ってきた。バカヤロー、なめんじゃないぞ―。だいたい、こんなことは医者の仕事じゃない!ふざけるな。健は思わず、叫びとも嘆きともわからない中途半端な声を発した。
「ヤグラシカ―」
 そして、足元の段ボールを蹴り飛ばしブースを出て行った。
「もうたくさんだ」
 白衣を脱ぎながら、ごったがえす会場を健は足早に出た。がらんとしたロビーの真ん中をドアへ向って歩く。
「逃げるの!」
 背後の声が広いロビーに響き、走ってくる足音が聞こえた。

(イラスト:北神 諒)

「健センパイ、また、逃げるの!卑怯もの!」
 甲高い叫び声の主は、紺野さくら。しまった、健は思わず振り向く。
「うっ」
 振り向いた瞬間、さくらの強く突き出した右拳が健のみぞおちへのめり込んだ。健は息が止まり前に倒れ込む。長いまつ毛をくるりと巻いて童顔を装う三十路の看護師さくら。ベージュのナースウェア姿の彼女の顔が正面に見える。
「ヤグラシカー?」
 さくらは、健の顔を睨みつけている。
「メンドクサイって言いたいの!だから何なんですか、いい大人が」
「……」
「また逃げるわけ。セ・ン・パ・イ。医者だからわがまま許されると思ってんの」
 さくらは容赦ない。
「私だって、看護師だし、こんな仕事、好きで来たわけじゃない。太田看護部長に頭を下げてお願いされたから。センパイは、小佐々院長から頼まれたんでしょう。小佐々院長って健先輩の恩人なんでしょう。それなのに、また逃げるの!」
 腹を押さえてうずくまる健には反論する気力はない。小佐々が恩人? ペテン師だ。あのおっさんと、あのデブの看護部長の奴め。俺が逃げ出すとわかっていて、口うるさい大学の後輩、さくらを送り込んだんだ。だまされた、チキショー!

 健は長崎西海医科大学卒、さくらは同じ西海医大の看護学科卒。ラグビー部の先輩と後輩のふたりが、いま立っているのは医師合同就職説明会の会場だ。来年の新人の医者(研修医)を獲得しようと200以上の病院が集まっている。
 2004年から導入された医師の新臨床研修制度で、今や医学生たちは、大学病院に縛られずに自由に研修先(就職先)を、全国の約1000の研修病院から自由に選択できるようになった。
 そのシステムはマッチングと呼ばれる。医学生と研修病院のお見合いだ。
 昭和のテレビ番組にあったフィーリングカップル5 vs.5とか、ねるとんパーティーなどのお見合いシステムと基本的には同じだ。好きな者同士をくっつける。そこには、競争、駆け引きはあたりまえ。抜け駆け、裏切り、どんでん返し、時には、親がからみ、恋がからみ…、人生をかけるドラマとなる。それがマッチングだ。
「パンドラの箱が空いた」
 古い世代の医者たちはそう表現した。
 かつて、医学生は閉ざされた大学病院の医局という集団へ入り研修医となった。健もその最後の世代だ。そこで、数年から十数年、丁稚奉公のように働き徐々に一人前になっていった。
 医局は、閉じた世界で、師弟関係、義理人情を基本とした職人集団。会社のような規約やルールがあるわけではない。そんな実態があるようでない組織に、医師は何の契約書も交さず入り、人生のほとんどをそこで過ごしていた。医局は、あっち系の組と同じだと批判する人もいるし、医局が世界に誇る日本の医療システムの根幹と称賛する人もいる。
 まあ、何はともあれ、日本独特の医局というシステムが100年も続いた後に、パンドラの箱は空いた。医学生たちは完全にフリー。かつて奴隷と言われた研修医は解放されて、大学病院を離れ、条件のいい都会の病院へ散って行く。
 研修医はフリー!
 自由万歳!
 新人、つまり研修医がいなくなった地方の大学病院も白旗を上げて同じく万歳!
 その潰れそうな大学に医師派遣を頼り切っていた西果中央病院も、万歳! 万歳!
 否、万歳さえできない瀕死の状態。医者がいないのだ。自力で医師を集めなければ廃院が待っている。
 博多に行く前の晩、冗談交じりに、いや半ば本気で、院長の小佐々英雄は健に言った。
「嘘ついても、騙しても、土下座してでも、何でもいいから研修医を集めてくれ」
「はい、頑張ります」
 気楽に返答した健だったが、このとおりのざまである。