【前回までのあらすじ】

 江戸大学病院の初期研修医1年目、ディーゴとジョージ、レイカ。6月から消化器外科での研修が始まり、分子標的薬治療の患者を担当することになった。同日に入院した2人の患者の血液検査結果がなかなか改善しないことに悩む3人。そしてついに、2人の患者に急変が起こる。宮沢の指示に従い、救急外来の血液ガス・電解質分析装置に走った僕は、低カリウム血症だとばかり思って治療してきた高井さんのカリウム値が、なぜか「7.0」と表示されたのを見た。



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 6月15 日、水曜日。海野さんと高井さんの急変から3日が経過した水曜日の夕方。消化器外科のカンファレンス室で、緊急カンファレンスが開かれた。議題は当然、今回の事故についての報告だ。行きがかり上、循環器内科の宮沢も参加している。細田医局長から、経緯と原因、今後の対策について説明があった。たった3日でこんなにまとまった報告ができるところからも、細田先生の能力の高さがうかがえる。

(イラスト:司馬サヤカ)

 今回の事故は、海野さんと高井さんの血液検査結果が入れ替わっていたことによって生じた。江戸大学病院の電子カルテは、血液検査結果、画像検査結果、処方内容などに全て独立したIDが振り分けられ、独自のアルゴリズムで連結されている。このような面倒な手続きを踏んでいるのは、消化器外科研修初日に細田先生が説明してくれたように、医療情報や患者情報をビッグデータとして研究などに使えるようにするため、それぞれを匿名化してセキュリティーを強化していたからだ。

 そのような特異なシステムだったため、海野さんの血液検査IDが高井さんの電子カルテと紐付き、高井さんの血液検査IDが海野さんの電子カルテと紐付いていたことに、誰も気が付かなかった。実際は低カリウム血症の海野さんは高カリウム血症として表示され、高カリウム血症の高井さんは低カリウム血症と表示されたのだ。そして、その結果を根拠に治療を進めたことで、海野さんは低カリウム血症が、高井さんは高カリウム血症がさらに増悪するという経過につながった。

 ここまでは分かったが、同じ日に入院した海野さんと高井さんのIDがなぜ入れ替わって紐付いていたのか。この最大の謎は解明できずにいた。というのも、検査室の管理室のメインコンピューターで2人のID発行手続きが施行され、その時点で電子カルテと誤った紐付けが行われたことは判明したのだが、誰が行ったのかまでは分からなかったのだ。

 メインコンピューターへのログインは共通パスワードが必要なだけで、院内の関係者であれば不特定多数がそれを知っている。このような運用は本来あり得ないが、検査室だけは管理者権限がある人以外も簡単にログインできることになっていたのだ。この運用体制は、僕たちの目の前で細田先生が激昂した6月6日に改修されることが決まり、最近ようやくログインできるのは管理者権限がある人のみ、ということになったばかりだった。しかし、海野さんと高井さんのIDが発行されたタイミングは、6月6日より以前。本人が名乗り出ない限り、間違いを犯した人を探すのは不可能だ。

 そもそも、検査室はランダムID発行アプリも使っていなかった。これでは特定の人物同士のカルテを故意にすり替えることができてしまう。さらに、ランダムな番号のIDであれば、紐付け時に打ち間違えたとしても、別の電子カルテに紐付けされる可能性は低くなる。しかし、今回のように連続したID番号を付けていれば、1桁入力ミスをすると別のカルテに紐付けされるミスが起こりやすくなってしまう。故意なのか過失なのか、真相は闇の中だが、2人のIDをすり替える理由が思い当たらないことなどから、意図的なものではないだろうという結論になった。

 幸い、ギリギリで対応できたことで2人には後遺症もなく、薬物治療の経過も順調だ。全てきちんと説明をしたところ、患者さんにもご家族にも納得していただくことができた。そして、今後は今回のような事態を防ぐため、各部門ともランダムID発行アプリを使用するのはもちろんとして、さらにID発行時にカルテとの紐付けを行う際、複数人がダブルチェックをすることが義務化された。

 江戸大学病院の院内で唯一、シンプルに検体の結果ができるのが救急外来の血液ガス・電解質分析装置だった。宮沢は高井さんの心電図を見た瞬間に、血液検査結果と矛盾することに気づいた。そこで僕に検体を持って救急外来に走らせることで、低カリウム血症ではなく高カリウム血症であることを証明させたのだった。
「なんで2往復もさせたんですか? 2つの検体を持っていけば1往復で済んだじゃないですか」
 僕の質問に、宮沢はニヤリと笑ってこう答えた。
「ディーゴのことだから、2つ同時に頼んだら間違えるかもしれないだろ。高井さんの方が、緊急性が高かったから、すぐに走ってもらったんだ。高カリウム血症、徐脈ときたら、次は完全房室ブロックや心室細動になりかねないからな……」

 今回は宮沢の大活躍で終わったが、そもそもレイカが心電図モニターに違和感を抱いたことが重要だった。レイカは、カリウムが6.6にもなっている海野さんに期外収縮が頻発していることに違和感を持ったのだ。まさか血液検査結果がすり替わっているなどとは思いつきもしないため、確信は持てなかったが、治療を進めることに躊躇した。あの躊躇がなければ、同じ違和感を抱いた細田先生が電話してきたり、宮沢が到着する前に、実際は高カリウム血症になっていた高井さんにジョージがさらにカリウムを投与してしまっていただろう。

「なんでもIT化するのはダメだと言っておきながら、データやITを一番妄信していたのは自分だったのかもしれない。検査結果がそう出ているんだから、結果を補正することしか考えられなくなっていたんだ。患者さんの身体診察、脱水の有無、そして心電図。注意することはいくらでもあったのに……」
 今回、暴走気味で治療を進めようとして、しかもそれを正そうとする宮沢に食いついてしまったジョージは、終始猛省モードだった。
 結局、「事件性はない」という判断で決着した今回の一件だったが、なんだか釈然としない結末だった。

 そんな僕のモヤモヤが打ち砕かれたのは、この報告会から10日がたった頃だった。仕事後に研修医室に行くと、僕のロッカーに1枚の紙が挟まっていたのだった。そこには、あの言葉があった。

まだまだ続く
メディカルウォッチマン

 またも現れた「メディカルウォッチマン」――。まさか、今回の出来事もこいつが仕組んだものだったのだろうか。さっきまでのモヤモヤは消え、僕の背後に大きな影が迫ってくるような不安に変わった。