これまでのお話
 江戸大学病院の初期臨床研修医1年目のディーゴとジョージ、レイカは、4月から循環器内科で研修をスタートさせた。その頃、循環器内科ではカテーテル治療中の合併症が立て続けに起こる。目の前で何度も急変する現場を見て原因究明のために走りまわるディーゴ達だったが、先輩医師である宮沢の助けを借りても解決できない。医局という閉鎖空間での解決は困難を極めたため、元エンジニアでもあるディーゴ、医師ネットワークサービスを提供する会社の社長の娘レイカが中心になって、病院の垣根を超えた医師限定の遠隔相談サービスアプリ「ディーゴ」を立ち上げた。全国の医師のアドバイスを基に、データを集めて推理するディーゴたち。そして、ついに犯人を突き止めたのだった。あの事件から1週間が過ぎ、平穏を取り戻したかのように思えた大江戸大学病院循環器内科だったが……。

 5月9日月曜日。初期研修医生活も1カ月が経過し、内服薬の出し方や、点滴の入れ方にも少しずつ慣れてきた。

 江戸大学病院には、僕、出井大吾やレイカ、ジョージを含め、初期研修1年目の同期だけで38人いる。2年目は40人で、合わせて78人の初期研修医がひしめく。江戸大学出身の人もいれば、都内の他大学や、地方の大学出身の人もいる。そんな僕らの溜まり場が、研修医室だ。昔は会議室として使われていたらしい40畳ほどの部屋の中に、机40台とイス80脚が敷き詰められ、1つの机を2人で共有している。初期臨床研修制度が2004年に始まって10年以上がたっているにも関わらず、いまだ初期研修医はこんな混沌とした部屋に閉じ込められる状態が続いている。

 そんな研修医室での話題は、ある程度決まっている。

 1つは、恋愛事情だ。とにかく情報が早い。おそらく病院全体の恋愛情報が最速で集約されるのが、この研修医室だ。
「循環器の今村先生と消化器の小林先生、9月に六本木ヒルズで結婚式するらしいよ!まさしく美女と野獣だよね」
「脳外科の徳重先生ってICUやオペ室の看護師さん達にアタックしまくってるらしいよ。ほんと見境ないよねぇ…」
などなど。特に2年目の研修医はスーパーローテーションで全ての科を回った人が多いため、かなり確度の高い情報が飛び交う。

 もう1つは、愚痴だ。
 診療科によっては研修医1人に対して1人、オーベンが付く。ただし、医師には変わり者が多い。オーベンと性格が合わなければ、その診療科にいる間中、地獄のような研修医生活を送ることになる。ちなみに、オーベンとは上級医、指導医のことで、ドイツ語で「上位」を意味する「Oben(オーベン)」からきている言葉だ。

 昔は、初期研修医はそのまま研修した医局に入って働くのが普通だったので、オーベンと研修医の間には強固な師弟関係が生まれていたらしい。しかし初期臨床研修制度によって、研修医は1〜2カ月ごとに診療科を移る仕組みになった。つまり、熱心に指導してもその診療科の医師になるとは限らない。そのためか、指導する気がないことを露骨に態度に出すオーベンも多い。「お前を一生懸命指導しても、俺には何のメリットもないからな」と言葉にする医師さえいる。そんなオーベンを、“クラッシャー上級医”なんて呼ぶこともある。これに当たってしまったら、その科を回っている数カ月の間、ただ耐えるしかない。だから自ずと愚痴も多くなる。


 そして最も多いのが、手技の話題だ。ルート(点滴ライン)が1発で入った、血ガス(動脈血採血)がうまく取れたといった話で研修医同士、盛り上がる。入職間もない初期研修医1年目が最も憧れる手技、それは中心静脈カテーテルの挿入だ。清潔なガウンと手袋を付けて行うその手技をこなすことは、この時期の研修医にとって一人前の医師に近づいた証ともいえる。

(イラスト:司馬サヤカ)

 そんな初期研修医の花型的な手技、中心静脈カテーテルを挿入するチャンスがついに僕らにもやってきた。

 今朝の循環器内科カンファレンスの後、江戸大学病院後期研修医で、僕の大学のサークルの先輩でもある宮沢淵男が声を掛けてきた。
「ディーゴたちって、まだCVカテーテル入れたことないよね。CVってcentral venous、中心静脈カテーテルのことね」
「はい、まだ経験ないです。ぜひやってみたいです、お願いします」
 ジョージが答える。この積極性を見習わなければいけない。
「そっか、分かった。明日CVカテーテルの手技があるから、誰かに一緒に入ってもらおうかな。詳細はまた明日話すから、勉強しておいてね」
 そう言うと、宮沢は去っていった。