聞き慣れない医学用語を話すその女性の名前は早乙女麗華。同じく来週から一緒に循環器をまわる女性研修医だ。普通は「麗華」なんていう名前を付けられたらプレッシャーを感じてしまいそうだが、レイカの場合は決して名前負けしていない、綺麗で華やかな容姿の持ち主だ。この3人で2年間、初期研修医として各診療科をまわることになっている。

(イラスト:持田 大輔)

 レイカに視線を移した宮沢は、声のトーンを上げた。
「あー!君は渋谷大学の早乙女麗華さんだね!君も循環器まわるんだ、楽しみだな。そうそう、いろんな可能性があるけど血管内皮機能障害8)やdistal emboli7)が考えられるよね。つまり血管の壁が傷んでいたり、末梢側に小さい血栓が詰まってしまうことね。ま、今回は緊急ではなく予定のステント留置だから血管内皮機能障害の可能性は低いけどね」
 そういえば宮沢は、医学部のテニス部の頃からよくしゃべることで有名だった。それにしても、なぜレイカの出身大学まで知っているのだろうか。おしゃべりな男は、さらにまくし立てるように続ける。
「それにしてもさすがは才色兼備で有名な早乙女レイカさん。わざわざ渋谷大学までミスコン見に行ったよー」
「循環器に興味あるの?」
「今度飲みに行こうか!」
とマシンガントークが続く。
 他大学のミスコンまでチェック済みとはこの男の情報収集能力は計り知れない。ただ、ここは合コン会場ではなく病院のカテーテル室で、しかも合併症の緊急対応中だ。もともと空気の読めないタイプだが、美女を相手にするとさらに読めなくなるのは学生時代から変わらないようだ。
 しかしレイカもさるもので、そんな宮沢をサラリとかわす。
「循環器領域が苦手なので心臓カテーテルの本を買って予習していました。よくある合併症ですか?」
 宮沢も、一呼吸置いて答える。
「うん、諸説あるけど、概ね1〜3%かな。特に緊急カテーテルの時とかはバタバタしているし、抗血小板薬の血中濃…いわゆる『血液サラサラの薬の効果』が十分でないことも多いからね。ただ、術前にしっかり準備しているカテーテルで、こんな立て続けに起こることは考えにくいけど…あっ」
 宮沢は口を滑らせたようで、バツの悪そうな顔をしている。学生時代「江戸大学医学部のスピーカー」と呼ばれていた口の軽さは相変わらずだ。明らかに聞こえていたはずの周囲の医師や放射線技師も、聞こえなかったふりをしている。
 しばらく、室内は時が止まったように静まり返った。

(イラスト:持田 大輔)

 その沈黙を破ったのは、少し鼻に掛かったような、妖艶な女性の声だった。さっき電話をしながら出て行った女性医師が戻ってきたのだ。

 「教授のPCI9)はまだまだ続きそうだから、先に岸田准教授から循環器内科研修の説明をしてもらいます。研修医の3人は准教授室に行ってください」
 声の主は近藤ゆり子。年齢不詳だが奇跡のアラフォーの異名を持つ、循環器内科初の女性医局長である。場の空気も微妙になってしまったため、僕たち3人は近藤先生の言葉に従い、医局棟の准教授室に向かった。


 医局棟に到着し、准教授室を探していると、一際目を引く教授室のネームプレートを見つけた。
『循環器内科 教授室』
 立派なヒノキに、大きな金色で彫られている。バブル時代を生き抜いてきた名残だろうか。悪趣味で、金のニオイがプンプンしてきそうな外観のこの部屋の主は、先ほどカテーテル室にいた江戸大学病院病院長でもある金子秀優循環器内科教授だ。その隣の部屋のドアに、『岸田太郎 准教授室』という文字を見つけた。教授室とは異なり、プラスチック製のシンプルなネームプレートだ。どうやら、岸田先生はまっとうな金銭感覚の持ち主のようだ。
 部屋のドアの前に立つと、ジョージがなんの躊躇もなくノックをする。この物怖じしない性格はマネできない。すぐに中から「はーい、どうぞー」と気の抜けたような声で返事が返ってきた。学生時代の循環器内科の講義で聞き覚えのある、特徴的な高い声だ。室内は、極めて質素。備え付けとも思われる机と棚、その手前に古びた応接セットがあった。
「はい、こんにちは。さっき近藤先生から連絡があった初期研修医の3人ですね? そこに座って」
 時間がないのだろうか。奥の仕事用の机から応接セットに移動しながら、早く座るよう僕らを促す。
「あなたから順番に簡単に自己紹介してもらいましょうか。時間がないので手短に。あと、将来入局を考えている科も教えてください」
 右端に座っていた僕は、手を差し向けられ、慌てて話し始める。
「は、はい。あ、出井大吾、江戸大学出身です。不勉強で分からないことだらけですが、頑張ります。特に何科に入局するかは決めていません」
 突然の自己紹介で薄っぺらな内容になってしまったことを後悔していると、続いて、隣に座るジョージが軽くお辞儀をした後に少し早口で話し出した。
「寺西ジョージと申します。江戸大学卒です。循環器内科は、高血圧、虚血性心疾患、心不全、不整脈、全身の動脈硬化性疾患と、扱う病態が多岐にわたるので非常に興味があります。循環器内科入局も考えています。循環器内科は2カ月と短い期間ですがPCIやRFCA10)など手技を中心に勉強したいです」
 さすがだ。僕が先に自己紹介したため少し時間的猶予があったとはいえ、この差はなんだろう。そもそもジョージは消化器外科志望だったはずだが、いつから循環器内科志望になったのだろうか。次はレイカ。
 「早乙女麗華です。渋谷大学出身です。私はICU11)やCCU12)での重症患者さんの全身管理に興味があるので、昇圧剤や輸液、利尿剤の使い方について学びたいです。3年目以降についてですが、小児科か産婦人科に進もうと思っています」
 岸田先生はレイカのほうにチラッと目をやると、すぐにジョージをまっすぐ見つめなおしてこう言った。
「はい、ありがとう。寺西君は循環器内科に興味があるのですね。そうですか、それではさっそく第3助手に入ってもらいましょう。何事も経験ですからね」
 彼の視界からは僕とレイカの存在は完全に消えてしまったようだ。

 循環器内科への入局を考えている研修医がいることに気分を良くしたのか、岸田先生は突然思い出したように立ち上がると、奥の棚まで軽やかに移動した。その棚は、この部屋には似つかわしくない高級そうな素材の立派な棚だ。金色の取っ手を勢い良く開けると、そこにはビッシリ箱が並んでいる。宅配ピザのSサイズよりもやや薄い、そんな大きさの箱がおそらく100個以上ある。