巨大な揺れに野戦病院化を覚悟

公平 3月11日、宮城県では震度7を記録しました。

里見 33年前の宮城県沖地震とは比較にならない揺れでした。僕は研究棟にいたんですが、あらゆるものが倒れてぐちゃぐちゃ。わずかな隙間にかろうじて立っていられたという状況でした。

 この揺れだったら、病棟も市内も、犠牲者と負傷者は相当出ているのではないか。災害対策本部を立ち上げるために東病棟の会議室に向かう途中、この病院は最前線として、さながら野戦病院になるだろうと腹をくくりました。後から何を言われても、「できることはやったんだ」と言おうじゃないかとね。

公平 悲愴な決意を固められたんですね。

里見 この辺りで電気がついているのはここ(病院)くらいだったんで、近隣の元気な方々もたくさん避難して来る可能性があった。そうなれば、収拾がつかなくなるので、「急の医療ニーズがない一般の人は院内に入れるな」と指示しました。何を言われても、「責任は院長の自分が取るから」と。

 トリアージ体制もすぐに整え、救命センター入り口にタグなどをそろえ、負傷者の受け入れに備えました。しかし、当日はほとんど来なかった…。

公平 宮城県沖地震が高確率で来ると予測されていて、耐震・免震などの対策ができていたんですね。

里見 我々も地震や女川原発の非常事態を想定した訓練をしていたので、トリアージ体制や対策本部の立ち上げなど初動はスムーズに行えました。私自身もおぼろげながら訓練を思い出し、慌てないことを意識して、「彼にはこれを任せればいい」という人の配置もできた。

公平 訓練は真面目にやることが大事なんですね。

里見 経験したから言える、当たり前だけど大きな教訓です。

はやるスタッフに「受け入れも支援」

公平 食糧の備蓄などの不安はあったと思うんですが、大学病院や周辺での人的被害がほとんどなかったことは何よりですよね。沿岸部にいち早く医療支援チームを派遣されましたが、電話もメールも、情報ネットワークがすべて途絶した状況で、どうやって情報を集めたんですか。

里見 津波の被害を受けた地域の状況について、行政経由の公式な情報は全くと言っていいほど入って来ませんでした。地震発生は金曜日だったので、週末にかけて東北大から地方の病院にバイトに行っている医師が多かったんです。土曜、日曜と、彼らが何とか仙台に帰ってきて、各地の病院や避難所の具体的な情報が対策本部にどんどん集まってきました。

 医療体制の壊滅的な被害を把握し、15日には医師の派遣を始めました。最前線に赴くスタッフには、「これからしばらくは専門を捨ててくれ。医師の原点に立ち返り、全員が総合医として活動してほしい」と檄を飛ばし送り出したんです。