若手医師向けの「大リーガー医招聘プログラム」の考案者としても有名な松村氏。「普段はだいたいこの院長室にいて、部長同士のけんかの仲裁をしています(笑)」。

 将来は「大医」になろう。発展途上国に渡って医療に従事しながら、チェ・ゲバラのように革命を起こそう─。1960年代後半、学生運動の嵐が吹き荒れる京大医学部に入学した僕は、当時、そんな壮大な夢を抱いていました。「大医」は、中国の有名な諺「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」から引用したものです。

 海外に出るためには「アッペ(虫垂炎)、ヘルニア、ヘモ(痔)」の手術だけは身につけなければと、卒業後はまず外科の道に進みました。ところが、いざ研修を始めてみると、とても海外を夢見るような余裕はなく、「大医」の野望は遥か彼方へ…。

 「では自分は何を目指すのか。大医でなければ中医なのか?小医なのか?」。ふと立ち止まって、そう自問したのが、総合診療の道に歩みだしていた30歳頃のことです。

 その頃、日本の医療界は、「病気だけ診ていてはだめだ。人を診よ」と盛んに唱えていました。つまり「中医を目指せ」というわけです。ところが、周りを見渡すと、フレンドリーで患者さんのウケはいいが、肝心の診療は我流、という“エセ中医”ばかり。中医どころか本物の小医があまりにも少ないのでは、と思い至ったのです。

 そこで僕は、「誤診をせず、病気をきっちり治せる“まともな小医”になろう」と決意しました。スタンダードな技術を身につけるため、米国の臨床医学を学び、それらを普及させるべく医学教育の道へと進みました。

 振り返ると、この言葉は、医師としてのあり方を模索するときに、常に拠り所のように存在してきました。結局、大医には1日もなれませんでしたが(笑)、すべて意味のある道のりだったと思っています。(談)

*アルゼンチン生まれの政治家、革命家、医師(1928〜1967)。

松村理司
Tadashi Matsumura
洛和会音羽病院 院長●1974年京大卒。同大結核胸部疾患研究所外科などを経て、83年沖縄県立中部病院、米国、カナダで研修。84年市立舞鶴市民病院内科、91年副院長。2004年から現職。
Photo:Noriyuki Kon