うつ病で親友を亡くし、精神科医を志した。だが、うつ病治療への思いの強さが、自分自身をもうつ病に追い込んだ。休まなければいけないとは分かっていても、うつ病になっていることは分かっていても、うつ病ゆえにそれを否定してしまった…。


泉 基樹氏(ペンネーム)
Motoki Izumi
1969年生まれ。96年S大学医学部卒。同年、J大学精神科に入局。98年、医局から派遣されたM病院精神科に勤務中、うつ病を発症。99年に大学に戻るものの、うつ病の症状が悪化したため、3カ月休職した。現在も精神科医として勤務中。
Photo:Tessue Kawano

 僕が医学部に進学し、精神科医になった背景には、親友の存在がありました。高校時代は、彼の家によく泊まりに行ったものです。その彼の薦めで医学部に進学したのですが、彼は社会人2年目にうつ病を発症。ビルから飛び降りてしまいました。

 彼は亡くなる半年前にも、自殺未遂を起こしています。大学4年生だった僕は、うつ病を疑ってあわてて大学の精神科の先生に相談し、彼の親とも相談して、説得を重ねて入院させました。ですが、入院先の医師がある日、病状を聞き取ることなく希死念慮のある彼の外泊を認めてしまい、彼はその日に亡くなったのです。

 「まじめに精神科の勉強をしていれば、彼を救えたかもしれない」。自責の念に駆られました。自殺未遂から、半年もの時間があったのです。うつ病に対する恨みも覚えました。こうして僕は、うつ病に対する復讐心から精神科医になったのです。

かけられなかったブレーキ
 医師になった後は、朝9時から夜10時まで患者さんの話を聞き、それから資料を調べるような生活が続きました。土日ももちろん仕事。周りからは「持たないからやめろ、力を抜け」と言われていましたが、うつ病に対する思い入れがありますから、オーバーワークと分かっていても止められませんでした。

 3年目を迎え、医局派遣で外部の病院で働くようになったときには、気力がわかず、ため息を付くことも多くなっていました。さらに半年後には、不眠も出現。「このままいくとうつ病になるかも」。この頃にはそう感じていました。

 それでも仕事のやり方を変えられなかった。やがて笑えなくなり、午前中は気力がわかず、仕事ができない状態にまで悪化しました。

 ダメ押しだったのは、急性期病棟への異動でした。治せる患者さんが相手ならば頑張りようもあります。ですが、急性期病棟には、保護室からさえ出せない患者さんが多くいました。「ここまで頑張っても患者さんが治らないのは、自分に実力がないからだ」。オーバーワークに、無力感が加わるようになっていました。

「自分がうつ病になっていることは頭では理解していましたが、心に浮かぶのはそれを否定する言葉ばかりでした」と話す泉氏。

 自らうつ病だと判断し、医局の同期が勤務する病院で、アモキサピンを処方してもらうようになりました。それでも電車が近づくと吸い込まれそうになりましたし、高いビルを見ると、「落ちたら楽になるだろうな」という思いが浮かぶようになりました。

 自分が医師として、このような患者を診れば、強制的に仕事を休ませます。そもそも、抗うつ薬を飲みながら医師として仕事するのは無茶です。

 しかし、その時は、「このまま病院を辞めたら、医局に迷惑がかかる」「臨床ができない自分には価値がない」と思い詰め、休めませんでした。この頑なな考え方自体も、うつ病の症状だったのでしょう。