東日本大震災の発生直後、全員が救急科の指揮下に入り、初期治療チームとして活動した福島県立医科大学の初期研修医。大地震から原発事故─。研修医1年目で経験した東日本大震災を3人の医師に聞いた。

(聞き手:石垣恒一)

五十嵐 亮氏
Ryo Igarashi
福島県出身
福島県立医大研修医2年目
(Photo:Katsuya Abe)

─3月11日の震災発生直後、福島医大の研修医の先生方は全員、救急科の下、初期治療チームとして組織されたんですね。

五十嵐 僕はちょうど救急科をローテーション中でした。地震発生の直後から大勢の傷病者の搬送に備え、病院の正面玄関でトリアージタグを持って待機していました。

菅野 私も救急科にいました。ただ、大学病院までの主要道路が寸断されたこともあり、地震直後、重傷の方はほとんど来ませんでした。

大久保 私がいた科は、地震直後に黄色タグのブースに指定され、あちこちからストレッチャーを集めたりしました。でも、11日の夜は、思ったほど患者さんが来なかったので、救急外来などあちこち見て回っていたんです。すると、研修医全員に集合がかかり、翌日からは救急への所属となりました。

  研修医の中で3交代のローテーションを組みましたが、最初はみんな病院にずっといましたね。ガソリンを確保する目処が立たないし、市内は断水もしていたので。

五十嵐 ほかの人と一緒にいる安心感もありました。

大久保 福島第一原発の事故への不安が大きかったですね。大学にいる方が情報を共有しやすかったので。

菅野優紀氏
Yuki Kanno
福島県出身
福島県立医大研修医2年目
(Photo:Katsuya Abe)

3号機爆発、その時…
─地震直後こそ患者さんは来なかったものの、12日に福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、状況は一変しました。

大久保 避難命令が出てからは、急に慌ただしくなりました。相双地区の病院から1度に50人もの方が搬送されてきました。

五十嵐 14日に、今度は3号機が爆発して、このときはさすがに院内でも情報が錯綜していました。

大久保 爆発で怪我をした方が搬送されてくると聞いて、その方に対応することで自分たちがどのくらい被曝するのか、まったく分からなくて…。何もかもが突然のことで、二次被爆にどう対処したらいいかもよくは分からないまま、みんなでヨウ素剤を飲んで待機していました。実際に診察した先生の話を聞くと、搬送されてきた方はそれほど被曝はしていなくて、普通の外傷患者として対応できたということですが。

五十嵐 (福島市内の)この場所自体が安全かどうかも分からない状況だったんです。

大久保 14日の混乱が少し落ち着いた後、避難したい人は避難してもらい、残る人は働こうと、研修医それぞれに判断が任されました。子供がいる人、親から帰るように求められた人、精神的ストレスを大きく感じていた人。そういった人たちはいったん休んでもらって、シフトを組み替えて二交代制になったのが、確か15日だったと思います。

─先生方は残られた。

菅野 残りました。私は家族も親戚もみんな福島県にいるし、避難するところはありませんでしたから。

大久保 私はシフトの合間を縫って何度か部屋には帰りました。でも、シフトの時間はバラバラだったし、あの状況だったので、いつ帰ったのか、ほとんど覚えていません。