「世界で最も影響力のある100人」の1人として、TIME誌2011年5月2日号に掲載された。

―その時点では、3階までは水没したまま。
菅野 水位は4階の高さでわずかに上下していて、泥水に浸かる中でトリアージをしました。診療機器がないから、まさに災害時のプリミティブなトリアージです。脈拍、瞳孔反射、体動、呼吸の確認という。いつ第2波が来るか分からないので、とにかく息がある方だけ5階に運んだんです。

―津波にのまれてから30分。その時点で息がある方はいたんですか。
菅野 いました。しかも、あんまり濡れていない方が。想像の域を出ないんですが、ベッドマットごと浮いたんじゃないかと。

―天井の狭い空間に浮いていた?
菅野 おそらく。褥瘡予防のためのエアマット、高機能マットなど空気を結構含んだマットに寝ていて、そのまま浮いていたと思います。一命を取り留めたのはそんな人です。

最上階に非常用物資を!
―最上階の5階は会議室と図書室だったということですよね。すると、医療に必要な物資は何もなかったんですか。
菅野 何もありませんでした。せめて酸素と水があれば、助かった人がもう少しいたと思うんですが…。

 酸素ボンベは運んだ患者さんに元々つなげていた数本だけで、他の人には分けられない状況だったんです。それも、救助がいつ来るか分からないから、動かさないことを前提に、流量を通常の4分の1まで減らしました。血圧も測れない状況で、患者さんの状態を把握するのは、呼吸の回数と脈拍のみでした。

 今後の教訓として、最上階には少なくとも、酸素、点滴(救急カート)、電源、水、食料を置いておくべき。このことを強く訴えたいです。特に海に近い施設では。

 11日の夜、患者さんたちに行えたのは、図書室にあったダンボールを会議室に敷いてベッドの代わりとし、濡れた服を脱がせてカーテンを巻き付けたことくらいです。わずかにあったタオルや新聞紙も保温としてかぶせました。

 夜間は巡回し、息を引き取る患者さんがいるときは、パニックを防ぐために周囲の人やスタッフが騒がないようにと心がけました。私が看取って隣の図書室に運び、安置しました。

―なすすべなく、亡くなった方も…。
菅野 いらっしゃいました。4階に降りたときに、かろうじて息があったものの、水をかぶっていた人はやはり厳しかったです。湿性咳嗽に対して、酸素はないし、吸引もできないという状況でしたから。横を向けて、痰や吐瀉物を手で掻き出してあげるくらいしかできませんでした。

 ただ、4階で息があった方で助かった方もいるので、あのときに捜しに行った意味はあったんだと思います。口惜しさ、無力感は残りますが。

―先ほど言われた装備が5階にあれば…
菅野 少なくとも、あと数人は助かったと思います。

―菅野先生は2晩、患者さんたちに付き添われた。
菅野 12日の昼に、水は1階の膝丈まで引いて、歩ける人は外へ出てもらいました。でも、建物の中はがれきがいっぱいで、自力で歩けない方はとても下まで降りられる状況ではありませんでした。

 12日午後からヘリ搬送が来てくれたので、私が優先順位を決めて送り出しました。酸素をつけている方、透析が必要な方をまず優先。次に寝たきりで、特に胃ろうをつけている方、水分を口から摂取できないので脱水状態が著明になっていました。

 そういった方々30人くらいを運んで日没になったので、運べなかった方々と共に私ももう1晩残りました。最後の患者さんとともに、私が助けられたのは13日の午前でした。