In Japan's tragic hour, he risked his life for others―。TIME誌は「世界で最も影響力のある100人」の中で、菅野武氏をこう評した。大津波に襲われて100人以上が最上階に取り残された公立志津川病院(宮城県南三陸町)で3日間、最後の患者の搬送を見届けるまで付き添った。3月11日に何が起こったのか。極限の状況を振り返ってもらった。

(聞き手:石垣恒一)

菅野 武氏
Takeshi Kanno
東北大学大学院医学系研究科消化器病態学博士課程●1979年仙台市生まれ。2005年自治医大卒。国立病院機構仙台医療センターにて初期研修後、栗原市立栗原中央病院を経て、09年4月より公立志津川病院内科に勤務。11年4月から東北大大学院に進学予定だったが、4月中旬まで南三陸町の医療統轄本部で診療体制復興のための調整業務に当たった。
Photo:Kiyoshi Onae

―震災当日の状況を聞くのは、フラッシュバックさせてしまうのではないかと、心苦しくもあるのですが。
菅野 構いませんよ。幸いに生き残った私は、何が起こったかを伝えていかなければならないと思っているので。こうした形でお話することで、あの日のことを自分の中で昇華できているという気もするんです。

―想定外の巨大な津波でした。
菅野 志津川の町にはチリ地震津波の碑がいろいろなところに建ててあり、病院にあった碑に書かれていた水位は2.8mだったんです。防災訓練では倍の6mの高さの津波を想定し、警報が出たら3階より上に逃げることになっていたんです。

 しかし、今回はその想定さえはるかに上回りました。15mくらいの津波が押し寄せて、病院の4階まで浸水した…。

―地震の直後はどういう状況だったんでしょうか。
菅野 地震発生直後、私は3〜4階の病棟の様子を見て回り、大きな被害はないことを確認しました。10分後、町内無線で大津波警報が流れ始めたので、入院中の患者を最上階の5階に運び始め、周辺から避難してきた方々も5階に誘導しました。

 でも、エレベーターはダウンしていました。電気は非常用電源に切り替わったけど、エレベーターの復旧は業者が入らないとダメなので、職員にはできなかったんです。

 エレベーターを使えないと、人を運ぶのはすごく大変なんです。しかも、志津川病院は慢性期、亜急性期という位置づけで、患者さんは寝たきりや移動に介助が必要な人ばかりでした。そういう人たちを移すには担架か車いすに載せて2人がかり。しかも階段を上がらなければならないから、移動はなかなか進みませんでした。

 津波が町に入ってきたことが確認されて、病院の4階がのまれるまではほんの3分程度。高い壁がすごい速さで迫って来る。「早く上がれ!」と叫んだ直後には、多くの同僚と患者さんを失っていました。

4階まで津波にのまれた公立志津川病院。病院の前に立つチリ地震津波の碑には「水位2.8m」と書かれていた。(4月11日、編集部撮影)

泥水の中でトリアージ
―5階に逃げられた人たちは、どれくらい動けなかったんですか。
菅野 第1波が引くまで、30分くらいはかかったと思います。

―その間、4階には降りられなかった。
菅野 5階の階段の縁まで水が来ていましたから。ようやく4階部分までの階段が見えてきたとき、「どうする?行くか?」と、周りのスタッフと顔を見合わせました。階下に生き残っている人がいないか、探しに行こうと。

 「いつ第2波が来るか分からないし、せっかく生き残ったんだから」と反対するスタッフもいました。

―どちらも間違ってはいない。
菅野 そう思います。ただ、一瞬のうちに人がこんなに亡くなるのを目の当たりにするなんて、初めての経験です。圧倒的な絶望感と無力感とともに、何もできなかった自分に対する怒りさえ覚えていました。

 これ以上、死んでほしくない。自分自身も、人生で一番強く死を身近に感じた状況だけど、だからこそ「後悔したくない」と思ったんです。「自分は下に見に行くから、一緒に来てくれる人がいれば」と言って、看護師、避難してきた若い男性と数人で降りました。4階は膝の高さまで泥水でした。