『文藝春秋』十二月号の「衝撃レポート 人工透析は必要か」という見出しにひっかかるものを感じ、手に取ってみました。筆者は日本腎臓学会が発行した「腎疾患患者の食事療法手引き」の筆頭執筆者でもある椎貝達夫氏となっています。

 「透析大国」といわれている日本には、30万人近くの透析患者がいて、毎年増え続けています。この記事の狙いは「人工透析を導入する前に手を尽くしているか、安易に人工透析を導入しているのではないか」という問題提起のようです。しかし、この記事が患者さんや一般の方々に与える印象を考えると、筆者の意図するところとずれてしまっているように感じました。

 記事全文をじっくり読むと、「その患者さんに人工透析が必要かどうか、その前にできることがないか、導入前に一歩立ち止まって再考してほしい」という筆者の思いの強さが伝わってきます。しかし、「人工透析は必要か」という、透析そのものを全否定しているかのような見出しの付け方や一部の表現に、「これを読んだ患者さんはどう思うか」という視点が欠けているように感じました。

 例えば、「専門医の多くは、慢性腎不全になったら、透析の導入は時間の問題であり、必然であると諦め、患者もそういうものだと思い込んでいます」という一文があります。また、「一種の死とも言える透析導入」という一節もありました。これを見たCKD(慢性腎臓病)の患者さんはどう思うでしょうか?

 筆者が指摘する通り、人工透析は一度始めたらやめることができません。相当の自己管理も必要になり、生活の自由度は制限されます。しかしそれを「一種の死とも言える」と専門医が発言すれば、過度に悲観的な思いを抱く方が多いのではないでしょうか。そして、自分に人工透析を薦めた主治医に、今まで通りの信頼を寄せることができるでしょうか?

 あるいは、腎機能が低下して病院を受診する患者が、この記事をきっかけとして「本当に透析が必要なのにもかかわらず」人工透析を拒否する、という事態にならないでしょうか?問題を単純な対立構造に当てはめて見せることで、慢性疾患の治療において重要な患者と主治医の信頼関係を壊す危険性があるように感じます。

 センセーショナルな見出しを付ければ注目を浴びるでしょう。本意はじっくり読めば分かる、と言いたいかも知れませんが、中吊り広告などで取り上げられるのは見出しであり、広告や目次だけ眺めて記事は読まずに終わる、という人が少なくない世の中です(私自身もそうです)。

 一般向けのメディアには大きな影響力がある一方で、受け手の顔が見えず、その後のフォローもしづらいため、医療者の発言は重みを増します。そうしたメディアへの露出は、健康教育の面では重要ですが、その半面、言葉遣い一つが大きな誤解を生み、患者さんと医療者の関係を悪化させたり、医療現場を疲弊させたり、といったことになりかねません。情報発信する際には、様々な立場の人が、自分の言葉でどのような印象を受けるか、考える必要があるのではないでしょうか。

 先輩医師からは、「以前よりも患者さんが情報を手に入れやすくなって、勉強するようになった。しかし、自分に都合のいい情報ばかり信じたり、悲観的な情報ばかりを気にしたりする傾向があり、治療方針を納得してもらうのに苦労するケースも増えた」という話も聞きました。

 今回のような、書き手の真意と実際の表現の「ちょっとしたズレ」は、人の手を介して拡散していくうちに、どんどん大きなズレに成長します。Twitterのように、字数制限があるメディアが介在すると、そのズレはさらに大きくなります。

 “過激”な語句がなければ注目されない/注目しない、そのようなメディアや読み手にも問題があるのでしょうが、日本人全体の健康を考えると、注目度優先でズレを許容することには利がないと思いますがいかがでしょうか。

 この記事は「連続キャンペーン」とうたっており、何号かにわたって掲載されるようです。今後どのような論が展開されるのか、注目していきたいと思います。(水)