派遣を打診されるも「学生が役に立つのか?」
 こうした事務作業を進めるうちに、新学期まで特段の予定を入れていなかった私は、PCATの被災地派遣チームへの同行を打診されました。

 当時の状況では、学生が被災地に赴くことはかなり無謀な行為だと感じていました。「被災地」という言葉は、いつ起こるかもしれない余震、予断を許さない原発情勢など、様々なリスクを想起させました。自衛隊やDMATのようなプロが行く場所だという印象を持っていました。学生である自分が何か貢献できるという具体的なイメージはわかず、被災地派遣の話を打ち明けた両親や親しい友人にも、不安な思いをさせてしまいました。

 しかし、学会の活動として医師の先生に同行するということで、最低限の安全は確保できるのではないかとも思えました。交通手段や宿泊施設、食料なども確保されていました。力仕事でも掃除でも何でもいいから、自分にできることを見つけ、お手伝いできないか。そしてもしかしたら自分が医学部で5年間積んできた経験が役に立つこともあるのではないか。そんな考えが生まれてきました。

 最終的には、家族も、被災地の方々のために何かしたいという私の気持ちに理解を示し、被災地行きを許してくれました。むしろ、貢献できるという自信を持てなかった私を叱咤激励して、送り出してくれたのです。周囲からの精神的なサポートが本当にうれしく感じました。

寝食を忘れて奮闘する開業医の先生に少しでも休んでもらいたい
 被災地での活動を決断してからは、本部での事務作業手伝いの合間を縫って寝袋や防寒具など、被災地で自活するための準備をしました。3月28日には学会本部で被災地派遣者向けの研修を受け、翌29日に宮城県気仙沼市へと出発しました。

 前日の研修は、PCATのこれまでの活動、現地の最新の医療ニーズ、被災地医療の各論(感染症、メンタルケアなど)といったテーマで、とても勉強になりました。しかし実際に行ってみると、被災地では日々刻々と状況が変化し、臨機応変な対応が求められ、出たとこ勝負のようにアイデアを絞る毎日でした。

 私の被災地での活動は、気仙沼市の避難所の一つである気仙沼中学校に設置された救護所が中心でした。PCAT派遣医師の渡瀬剛人先生に同行し、サポートをさせていただきました。渡瀬先生は米国のオレゴン州から来たERのドクターで、私にとっては頼れるアニキ分として、本当によく面倒を見ていただきました。

救護所となった気仙沼中学校の保健室で。左から小澤、渡瀬先生、村岡先生のクリニックの師長さん、村岡先生、保健師の方々

 渡瀬先生(と私)が担当した気仙沼中学校は気仙沼小学校と隣り合っており、それぞれ約600人、約400人の方々が避難していました。さらに気仙沼中学校に隣接する市民会館にも約600人の方々が避難していました。

 被災時から、これだけの数の避難者の医療を一手に担っていたのは、地元で開業されていた村岡正朗先生でした。村岡先生自身も、自宅とクリニックを津波に流された避難者でした。中学校の保健室を救護所とし、そこへ寝泊まりしながら、避難住民を守るため孤軍奮闘されていたそうです。被災からの数日間、まともな設備がない状況下で治療を続け、急場を乗り切った村岡先生のお話は壮絶というしかありませんでした。

中学校のグラウンドに設営された自衛隊救護所の前で。PCAT、自衛隊、旭川医大の3チーム

 村岡先生のように各避難所で働く地元の先生の代診をすることで、少しでも休んでいただこうというのが、PCATの活動の大きな目的の一つです。日中の避難所の医療は、PCAT、自衛隊、旭川医大の3つの医師のチームと保健師さんたちとで担当し、村岡先生の負担を減らすことができたと思います。

 しかし夜間の避難所の医療は、依然として村岡先生お一人で対応されていました。PCATが村岡先生の夜間当直の代診を行った時期もありましたが、状況に応じて行っていただけで、定常的な支援にまでは至っていませんでした。