新しい専門医制度が始まった。もう、この流れは止まらない。地方病院の研修責任者である井中先生の苦悩は深く(前々回参照)、指導医の厚井先生の戸惑いは大きかった(前回参照)。一番の当事者である初期研修医は何を思うのだろうか。


 思案橋の電停の少し手前に3階建て、歪な三角形のビルがある。
 チーズケーキのひと切れといった感じだが、僕の目にはなぜか帆船に見える。外側には鉄のらせん階段がついていて、音を立てながら2階へと昇る。靴を脱いで狭い扉から船内へ入る。
 ショット・バー『トロワ』。レコードが聞ける、僕のお気に入りの船だ。

 船内はデッキのように床も天井も木製で、手入れが行き届き黒光りしている。歪だが奥行のある店舗の中央に一枚板の長いカウンターがあり、マスターが立っている。
「いらっしゃいませ、ライト先生。今日は珍しく、お連れさんですね」
「うん、研修医の永良部(えらぶ)君」
 僕の後ろについてきた背の高い研修医は、低い天井を気にしながら頭を下げた。ここに初めて入った誰もがそうするように、マスターの背後の沢山のボトルと棚にびっしりと並んだレコードを興味津々で眺めている。
 僕たちは、マスターの前には座らない。長いカウンターの反対側、電車の軌道に面した窓の下にある二人席の短いカウンター。ここが、僕の指定席だ。

「ビールでいい? じゃあマスター、彼にビール。僕はいつもの」
 さあ、夜の海に出航だ。
 上着を脱ぎ、温かいおしぼりで顔を拭く。夕暮れを走る路面電車と思案橋に急ぐ人々を見ながら、ハイボールとビールグラスを鳴らす。プレーヤーの針を下ろしてもらうと、アナログの懐かしい低音が板張りの床と天井に響き、琥珀色のボトルに共鳴する。
『What a wonderful world』
 サッチモ(ルイ・アームストロング)のかすれた声が夕暮れ時のせわしい繁華街を一瞬で別の世界へと変えてくれる。
「そうさ、なんだかんだあっても、この世は素晴らしいんだ」と、僕は毎回ここで確認する。
 路面電車が向こうからガタゴトと音を立ててやってくる。振動で店全体が揺れてレコードの針が飛び、サッチモの声に意図したようなブレスが入る。僕のもやもやがそのブレスで消えてゆく。
 僕はこんな昭和な隠れ家に、レコードを見たことも聞いたこともない若い研修医を時々連れてくる。
 今回は、2年次初期研修医の永良部君の話を聞いてみよう。

1.永良部君の迷い:3年目の勤務先は自分で選びたい

 永良部君は長崎市のA病院(管理型臨床研修病院)の初期研修医。1年目の研修をA病院で終わり、この4月から7月まで大学病院で研修している。その後、A病院へ帰って来年3月まで研修という予定だ。
 我々はこれを“逆たすき”プログラムと呼んでいる。長崎県のどの病院で研修しても、長崎大学病院で一定期間研修できるというシステムだ。

「逆たすきは、ありがたいですよ。初期研修が終わると専門研修に入るわけですが、やっぱり大学を見とかないと、進路は決められないですし」
「大学側にもメリットがあるんだ。いろんな病院から初期研修医に来てもらって、最終的には後期研修先に選んでもらいたいからね」
「そういう狙いはあるんでしょうね。でも、同じ内科でも市中と大学では全然違うことは感じます」
「そう。体験してこそ、本当の違いが分かる」
「だから迷うんです」
「何を?」
「いろいろですよ。3年目は大学じゃなく、幅広くいろいろローテートして、さらに多くの症例を見たいんですよ。例えば、3年目は離島に行って、内科、外科に関わらずいろんな疾患を見るとか。その後に専門的な内科か全身管理ができる大学や大きな病院の麻酔科に行こうかと思っているんです。総合診療科も考えてはいますが、ちょっと、将来的によくわからないので……」
「なるほどね」
「それに、大学への入局というのは少し抵抗があるんですよ」

 永良部君の迷いは次々に吐き出され、デッキの上にどんどん積み上がってゆく。僕はグラスを揺らしながら傾聴していたが、さすがに船が沈むとまずいので、ここら辺で舵を取る。
「つまり、君の話をざっくりとまとめると、内科か麻酔科で迷っている。しかし、3年目は自由にしたい…、ということ?」
「まあ、そうですね。でも、同期より1年遅れるし。3年目だけプログラムに入らずに受け入れてくれる病院があるかも分からないし」
「確かに、そうだね」
 思案橋の夜の海を、帆船はゆっくりと進んでいる。