「結局、新専門医制度で一番損するのが僕らですよね」
「どうしてですか?」
「失礼ですけど、ライト先生の世代は、あと10年そこらしか臨床現場にいないでしょう?」
「まあ、そうですね」
 とは答えたものの、長崎は実働する医師の平均年齢が非常に高いというデータもあるようだ。例えば、長崎市内の勤務医の平均年齢は50才前後で、小児科開業医の平均年齢は60才を超しているらしい。僕が推測するに、長崎の医者が特に仕事好きというわけではなく、若い人が跡を継いでくれないので、続けるしかない状況なのだと思う。

「確かにあと10年ですかねえ。辞められれば嬉しいです。少なくとも、もう僕らの時代でないことは確かです」
オヤジの栄光の時代はいつなんだよ? おれは、今なんだ…という感じです」
「それもスラムダンク?」
「そうです。つまり、先生たちの世代は新専門医制度なんて関係ないんですよ。でも、僕らの世代は、新しい制度の中の実質的な指導医として、講習会やテストを受けて指導の資格を取り、維持するために学会に行って単位をとらなければならない」
「そうですね。新制度ではさらに共通講習会として、医療安全とか感染予防の講習会を各施設で実施しなければならなくなります」
「そうなんですか? めんどくさいな〜。次から次へと、いろんなノルマが発生してくるわけですね。自分のためというより、新しく入って来る人たちのために」
「そうです。確かに、教えるのは先生たちの世代ですからね」
「教える側のインセンティブは?」
「今のところ、機構も学会も、何も言ってないですね」
「偉い人たちは自分たちで制度を作って何もしない。やらされるのは俺たち」
 正義の人の声は段々と大きくなるが、車内の騒然の中ではかき消される。
「資格を取るのに自腹を切って、自分の時間を割いて教えなければならない。教えたら、若い人はすぐに去ってゆく。それをボランティア同然のタダ働きで続けていくんです! どう思います?」

 そんなことを僕に聞いてはダメだ。そんなことは20年近くやり続けている。そして、僕みたいな先生は日本全国、隅々に沢山いる。そういう先生のお陰で厚井先生も一人前になったし、僕もなんとかここまで来た。ボランティア精神がなければ、日本の医学教育、ひいては日本の教育も成立しないのが現実だ。
 しかし、厚井先生が言うように、いつまでボランティア精神を当てにしていられるのかは疑問が残る。教える人もちゃんと評価されて、インセンティブを与える仕組みにならなければ、真の教育システムとは言えないだろう。
 正義の人は、爆発寸前にある。
「もう、ホントに最悪ですよ! 指導医の立場は。おまけに最近は『研修医を働かせすぎるな。労働時間を守らせろ』の一方で、『研修目標に到達させろ』ですよ。あんなに膨大な目標を、9時5時勤務でクリアーできるわけがない!!」
「わかります」
 どうやら、話は別の問題に移りつつある。
 電車は思案橋より手前、「築町(つきまち)」に着いた。ランタンフェスティバルの会場の近くなので、次々に乗客が降りてゆく。
「じゃあ、降りますか?」
「降ります! こんなこと、やってられないですよ!」

 僕たちは人混みの中を中華街へ向かう。
 背の高いオレンジ色のオブジェと赤い大きな門柱が灯篭の光に照らされ、輪郭がぼやけたまま目に入ってくる。背の高い厚井先生は群れの中で頭一つ飛び出て、龍踊の龍頭のように、ゆっくりと左右に首を振る。道端に並ぶ露店からは湯気がもくもくと噴き出ている。煮込んだ豚バラの肉を白いまんじゅうで挟んだ角煮まん、ふかふかに蒸されたマーラーカオ。食欲をそそる甘い匂いが、マフラーを巻いた行列の隙間に入り込む。
 龍頭は上を見上げた。頭上には無数のランタンが並び、ここが異次元への入り口のような錯覚に陥る。龍の目はさっきまでと異なり、遠くを優しく見つめている。インスタ映えを狙う人たちがシャッターを切るたびに、龍となった厚井先生も立ち止まる。
 何を考えているのだろうか?
 僕は願う。厚井先生が長崎で毒を吐き切り、すっきりとして帰ってもられればと。さらに願わくば、若手の教育を投げ出すことなく続け、『スラムダンク』の安西先生のような良き指導者になってもらいたい。そんなこと、僕が言えた義理じゃないかもしれないけど。

あきらめたらそこで試合終了ですよ
 スラムダンクで僕が唯一知っている安西先生の名言を口にすべきかどうか……。背の高い彼を見上げて迷いながら、足はいつものように思案橋に向いていた。

(つづく)


 この話はフィクションですが、現場の指導医数人のお話を聞いて構成しました。厚井先生の不満や不安に対する答えやご意見があれば、コメント欄にどんどん書き込んでいただけると幸いです。