『SLAM DUNK』(スラムダンク)は井上雄彦による高校バスケットボールを題材にした少年漫画。『週刊少年ジャンプ』で1990年から96年にかけて連載され、爆発的な人気を得た。
 当時バスケット少年だった厚井正義君は、汗と涙と友情と勝利の物語の虜になり、医学生や医師になっても、事あるごとに繰り返し読んでいるそうだ。
「行き詰まった時なんかに読むと勇気をもらえるんですよ」
「小説でも、マンガでも、そんな物語と出会えることは幸せですよね」

 リバウンドを制する者はゲームを制する。厚井先生はこのセリフの意味と今日の視察で感じたことを織り交ぜて解説してくれた。
「簡単に言うと、バスケットのリバウンドとは、シュートが外れてはじけたボールをつかみ取る技術で、非常に重要なんです。リバウンド技術だけでスカウトされたりするくらいなんです」
「そうなんですか」
 そのリバウンド技術を我々の長崎チームは持っていると、厚井先生は思ったそうだ。
 ゴール(若手医師獲得)を目指し、どんどんシュート(企画)を打つが、入らないことも多い。だけど、すぐに反応してボールを拾い、味方にパスしたり、再度シュートを打ったりする。あきらめずに、何度もチームでトライするからすごい…らしい。
 何のことかよくわからないが、厚井先生の頭の中は、バスケットやスラムダンクというフィルターを通すシステムになっているようだ。とりあえず礼を言う。
「ほめていただき、ありがとうございます」

「良い指導医と良いプログラムに若者は集まると、ライト先生は言いましたよね」
「はい」
「スラムダンクでも、安西先生という名将の下に個性豊かなメンバーが集まるんですよ。そして、いろいろなトラブルが起きつつも、勝利をつかんでゆくんです。でも、我々の医療業界のリアルは、どうも違うような気がしてます」
「何が?」
「いくら良い指導者、良いプログラムでも、若者は去ってゆく」
「まあ、そういう面もありますね」
 乗客がますます増えてカオス化した電車の中で、僕は曖昧な表情を浮かべていた。
 僕の表情を読み取り、混沌の中で論点を見つけた正義の人は、喜々として持論を展開してきた。多国籍の電車の中は小さなダイバーシティー。どんな意見や考え方を出してもいいのだ。正義の人は吠える。
「研修医に一生懸命教えようが教えまいが、結果は同じような気がします。残ってくれる奴は最初からそう思っているし、いくら教えても出ていく奴は平気で出ていく。2年間一生懸命教えたのに、挨拶もなしに出てゆく失礼な奴もいる。どあほうが…って感じですよ。ほんとに、教え損です」
「わかります」
 僕も毎年毎年、苦汁をなめている。

 地方における研修医教育の目的は、将来的にその地方の医療を支える医師になってもらうことだろう。それもひとつの立派な目的で、悪いはずがない。しかし、医学教育系の学会や教育プログラムを作る審議会などは、そのような考え方に反対の立場を示す。研修医教育は純粋に「立派な医師にするための教育」で、「地域への定着」などとは切り離して議論すべきという方々もいる。
 僕はそうは思わない。
 カナダで学んだ成人教育理論の中に、Constructivism(構成主義)というものがある。
 教育とは、特別なものではない。崇高な聖域ではない。教育はこの現実社会の中にある。現実社会を構成するひとつが、教育なのだ。彼らの言う「立派な医師」が現実のこの社会、「この地域で働く医者」のことを指してもいいじゃないか。「研修医教育とは、この地域で働く医者にするための教育」でもいいと思う。
 だから、「教え損」と嘆く厚井先生を否定してはいけない。聞いてやらねば。
「医局とか病院は俺たちに、『ちゃんと教えて、後期研修医として残せ』とプレッシャーかけてくるし。研修医を残せば、ものすごくほめられて評価されるけど、獲得できないとダメ指導医ですもんね。正直、勧誘力が人事に影響したりする。やってらんないですよ」
「わかります」
 溜まったものをどんどん出してくれ。この電車は何でもあり。喧騒の中で毒を吐いてさっぱりして帰ればいい。

「結局のところ、都会には勝てない。いいプログラムなら若手が集まるなんて、嘘。いくら努力しても無駄。誰だって若いうちは都会に行きたいし、それはしょうがない。新専門医制度になったって自由競争なんだから、若い人が都会に集まるのは当然ですよ。」
「わかります」
 まったく同感だ。初期研修の内容は国が規定したものであり、この10年あまりである程度標準化されてきた。だから、「全国どこでも同じ」でなければならないし、実際のところ大差はないと思う。
 しかし、専門医の研修はまだ標準化されていないし、都会の枠を制限して地方を守るマッチングのようなシステムは確立されていない。
「ライト先生が、小説『フルマッチ』の中に書いてますよね」
 マンガの他に、小説も読むんだ。ちょっとびっくり。
「最初の方で、新臨床研修制度が始まったことを『パンドラの箱が開いた! 完全にフリー! 奴隷解放宣言! 自由万歳!』って。まさに、その状態が今の新専門医制度と思います。
 どあほうが…と諭したところで、みんな都会に逃げてゆく。これが3年も続けば、潰れる医局が出てくるんじゃないですか? 正直、もうすでに潰れかけているところも多々あるみたいですけどね」
「わかります」
「新専門医制度が大学への回帰とかいう人もいるけど、地方についてはそうではないと思いますよ。地方の大学の入局者数は減り続けるんじゃないんですかね」
 新制度の前後を比べられるデータを日本専門医機構が出していないので、何とも言えない部分はあるが、地方の医局の人手不足感がまったく解消されていないことは確かだ。
 機構は、本当にデータを出す気があるのだろうか? 「出す出す詐欺」なのか?
 データを表に出して堂々と議論し、改善すべきところはすぐに改善すべきと思うのだが、そこに厚井先生のような現場の指導医の声は届かない……。