坂の街にめずらしく小雪が舞った夜、立ち飲み屋「ジーナ」では何人もの男が死んでいた。
「あたたたたたたたた!」
 内科医の井中先生はワイシャツをめくりあげ、空に向かって左右の拳を連打している。筋トレで鍛えたと自慢する太いしっかりとした腕と裏腹に、足はよたよたとおぼつかない。
 白髪まじりとなった今も『週刊少年ジャンプ』を愛読する井中先生は、名作「北斗の拳」の大ファンだ。酔うと拳を握り、劇中に出てくるような百烈拳を空に向かって放つ。終わると焼酎グラスをグイッと上げ、ネクタイを外し、主人公ケンシロウの名台詞。
「おまえは…、もう死んでいる」
「な、何だとォ?! ひでぶっ」「あべし」
 僕と銀髪のマスターがお約束通り、カウンターに突っ伏して絶命する。酔いが回った僕は本当にそのまま逝きそうになるのだが、
「シャチョウさん、シャチョウさん、おカネ、払ってから死んでくださいね」
 フィリピンパブの看板娘を何十年か前に卒業して日本に帰化したジーナが僕の背中を叩く。唸り声をあげながら、わざとらしくむくりと起き上がった僕のグラスに、井中先生はハイボール缶を傾けた。
「生き返りましたか〜」
 カウンターだけの小さな立ち飲み屋。低い天井におじさん達の笑いがこだました。

 長崎の歓楽街、思案橋から少し入り、坂本龍馬の銅像が立つ丸山公園の手前を右に折れ、さらに奥まった路地裏にあるジーナは、5〜6人も入ればいっぱいになる立ち飲み屋だ。銀髪に白のとっくりセーターを合わせているマスターは、安酒のボトル瓶が並ぶ壁を背にメンソールをくゆらしている。
「看板は『立ち飲み』で出しているんですが、うちのお客は高齢化してますからね、立って飲むほど元気な人はいないんですよ。だから椅子をね」
 パイプ1本で支えられた赤いビニール張りの椅子はぐらぐらと揺れる。寒さのせいか、客の入りは悪く、今のところ井中先生と僕だけが一番奥の席で揺られている。

 僕らは、今日の夕方まで続いた研修の反省会という名目で飲んでいる。
 1泊2日の指導医講習会で、県内外の様々な地域から約40人の医師が集まる。僕は主催者で、井中先生に毎回手伝ってもらい、毎回思案橋に繰り出している。毎年、夏と冬に2回開催するので、過疎地域の小規模病院で勤務する井中先生にとっては年2回の憂さ晴らしにもなっているようだ。だから、井中先生は毎回しこたま飲み、学生のようにはしゃぎ、ヤンキーのようにからみ、JKのように歌いまくり、最終的にはしっかりとつぶれて、帰ってゆく。

 「井中」は本名ではない。
 指導医講習会では、「田舎に住んでいるから、「イナカ先生」と呼んでください」と自己紹介し続けて、いつのまにか「井中」という当て字を誰かがつけた。過疎の町の100床規模の病院にずっと勤務しながら、医学生の夏期セミナーとか初期研修医の地域研修とかを世話する奇特な方だ。正直、僕なんかには絶対真似できない。

 今日の井中先生は、いつにも増して酔っている。語気も荒い。
「ライト先生、今度の専門医制度の専攻医の登録状況、どう思いますか?」
「いや〜、どうって……。議論のしようがないですよ」
「でしょう。議論しても無駄。明らかに東京や京都に集中しすぎでしょう」
 井中先生は、僕の意味するところを、完全に取り違えたようだ。
「うん、まあ…。そういう見方もありますね」
 あえて否定はしなかった。いくつかのデータを示して、新専門医制度を非難する論客はいる。井中先生はiPADの画面に太い指を乗せてそのデータを引っ張りだす。

東京一極集中を招いた新専門医制度の弊害 〜医師偏在対策は予想通り大失敗〜
(坂根みち子、医療ガバナンス学会、2018年1月5日)

新専門医制度、医療崩壊を招く驚きの新事実
(上 昌広、JB PRESS、2018.1.18)

 このデータは僕もすでにチェックしていたが、初めて見たふりをしてふんふんとうなずく。
「ひどいですよ、地域格差は。ある県では内科医がたった5人ですよ。外科が5人以下の県も沢山ありますよ。もう、むちゃくちゃ」
「いや、まあ、これはひとつの見方ですから、実は…」
 聞いてない。井中先生は、立ち上がり腕をまくる。顔がこわばり、上腕二頭筋が膨れ上がって両拳が突き出される。
「あたたたたたたたた!」
 空に向かって連打すると、ジーナがにやにや笑ってテーブルを拭き始める。連打が終わると、焼酎グラスを空けてセリフが放たれる。
「あたたたたたたたた!新制度、おまえはすでに死んでいる」
「な、何だとォ?! たわば」
 マスターと僕はまた倒され、新たに入って来た2人の中年男も一緒に死んでくれた。どうやら、今日は犠牲者が増えそうだ。