流しのタクシーは、ダメだ。
 これも講習会で学んだ。ホテルのガードマンに20ペソ(50円くらい)を渡し、タクシーを捕まえてもらう。「地球の歩き方」の地図を見せると、運転手がクビをかしげる。ダメだ、こいつ、知らない。別のタクシーを、とガードマンに言うと、運転手が、「OK,OK!」と連呼する。ガードマンが大丈夫とドアを開け、半ば無理やり押し込められる。
<ヤバイじゃないの〜!>
 タクシーはゆっくりと走りだす。まだ宵の口と言う感じで、街は浮き足だっていた。若い男女の笑い声、スピーカーから流れるダンスミュージック、店のドアが開くとカラオケが外へ流れる。クラクションはいつもどこかで鳴っている。
 僕は用心深く、ここは何というストリートか、ここはどこかと、何度も運転手に聞き、地図を確かめる。しかし、どこにいるかわからない。運転手もぶつぶつ言いながら、店を探す。結局のところ15分ほど走り、中心街からやや離れたホテルの前でタクシーは止まった。紙幣で払う。
「お釣りをくれ!」
「Thank you ! 」
 運転手はドアを閉めて走り去った。Yの言葉を思い出す。
「ボラレても気にするな。どんどんボラれろ。たかが数百円でいざこざを起こして、大変なことになることもあるからな」

 周りを見るが、それらしき店はない。ホテルの前には、レストランやバーが何軒か並び、呼び込みの男や女がメニューボードを持って立っている。通りを歩いている人はいない。ホテルの中に入って聞こうかとも思ったが、女と目が合った。何人目かのルビー・モレロ。
「シャチョウさん、安くしとくよ」
 僕は首を振り、地図を見せて、「ここに行きたい」と言う。
「は〜?」
 ルビーが首をふり、おまえは…という顔をする。しつこく聞くと、面倒くさそうに教えてくれて、向こうの夜空の方を指差す。その方向に歩きだし、ホテルの角を曲がったところで、
<絶対に、たどりつけない>
 その確信が湧き上がり、踵を返し、再びルビーのところに戻った。50ペソをポケットから出し、「僕を連れて行ってくれ」と、泣きそうな顔で頼んだ。
 もう、彼女に頼るしかないのだ。
 ルビーは周りの人を気にしながら、紙幣を受け取り、クビを横に曲げて「付いてこい」と合図した。彼女の白のシャツが街灯にまぶしく映る。黒のミニスカートでハイヒールをコツコツならしながら、隣の建物の地下の駐車場へ行き、タガログ語でなにか叫ぶ。

 髪を刈り上げた大男が、奥から出てきた。ふたりはなにやら話すと、男が大型のスクーターにまたがり、僕の前にやってきた。顎で「乗れ」と合図する。
 僕は、「は〜?」という顔をしたのかもしれない。ルビーが「大丈夫」と、親指を立てた。彼女のにこりと笑う横顔を、メトロ・マニラのけばけばしいネオンがちかちかと照らす。用心深い僕は、乾いた熱風を感じながら、たたずんでいた。
<想定は、崩れた。この状況は、講習会で習っていない……>
しかし、この街でそんなことを考えること自体、バカバカしいことのように思えた。もう、この風に任せるしかないな。

大男のスクーターでタンデム中の後部シートから。

 僕を乗せた大型スクーターは、メトロ・マニラの海岸沿いの道を飛ばしていた。
スピードが上がる。刈り上げの男の背中にしっかりつかまる。薄暗い砂浜にひとが群がっているのが、月明かりでわかる。反対側の高層ビル群の窓に映る月が、僕たちを追いかけてくる。
 パ・パパパ・パーン!
 破裂するようなクラクションが耳元に突き刺さり、エンジンから噴き出る白いガスにせき込み、僕の視線が下がる。バックミラーに人が映っている。
<誰だ? ああ、俺か…。楽しんでいるじゃないか、俺……>

 運転する男が振り向く。何か叫ぶが、英語かタガログ語かさえわからない。その後、大きな背中が傾きスクーターが右にゆっくりと倒れる。しがみついた腕には、汗がにじむ。大きな交差点で弧を描きながら、曲がってゆく。からだは重力に任せて傾き、何かを振り落すように、気持ちも軽くなる。スクーターはエンジンの音を下げて、ビルの谷間に入って行く。
<どこに行くのだろう? まあ、どこだっていいや>
 小さな冒険は始まってしまったのだから。ジョージの妹もルビー・モレノ似。なんていう名前だっけ…。スマホの写真は、キュートだった。明後日の夜は今のところフリーだ。食事にでも誘うか……。
 そんなことを考えているうちにスクーターは、さらに小さな通りに入り、スピードを徐々に緩めてゆく。それとともに、僕の鼓動は高まっていく。その鼓動が背中に伝わったのだろうか。男が振り向き、にやりと笑った。