「天狗熱? ふ〜ん、そんなこと研究してるわけね」
 僕は、齊藤信夫君の日焼けした顔をみながらそう言った。
 たまに、教え子が尋ねて来てくれる。「今、何をやってるのか」と聞くと、いっぱしの医者になった彼らは、小難しい話を長々としてくれる。こんなにすごいことやってます! 頑張ってます! みたいな感じで、それはそれでとてもうれしく、微笑ましくはあるのだが、文系頭の僕には専門的すぎてほとんど理解できない。
 数年前のこと、齊藤君はフィリピンから数名のドクターを連れてきて、長崎大学病院へやってきた。シミュレーションセンターと研修医室の見学では、僕が対応した。対応と言っても、フィリピン人の話す英語はさっぱり分からず、齊藤君の話もほとんど分からなかった。ただ、日本人らしく曖昧な笑顔を浮かべていただけだ。
 帰り際に齊藤君が握手してきた。誘ってみた。
「今晩、久しぶりに、思案橋にでも行く?」
「いいですね〜、でも、お客さんのお世話がありますから。」
「OK、じゃあまた今度、帰国したときにね」
「いや、今度は先生がフィリピンに来てください!」
「オレがフィリピンに? いや〜、ちょっと。そのうちね…」

   ※   ※   ※

 アっツ〜。なんだ〜、この暑さ。
 2016年2月18日の夕方、マニラ国際空港ターミナル2に僕は立っていた。
 到着ロビーには、甘い香りをのせた乾いた風が吹いている。真冬の日本から着てきたダウンジャケットをリュックへしまいこみ、手荷物を奪おうとするベルボーイを断りながら、両替ボックスへ向う。フィリピン通の高校時代の友人Yから、そうしろと言われたとおりに、
『1000p×1、100p×5、20p×5』
 あらかじめ書いておいた紙切れをガラスの向こう側の女に渡す。
 彼女は短いスカートで足を組み、ガムを噛んでいる。
「ハ〜?」
 そんな顔をした彼女の細い眉は釣りあがっていた。
「ジャパニーズ、エン」
 彼女はうなずき、親指を折った4本の真っ赤な爪を立てて、今度は眉をさげ、少し微笑みを浮かべてクビをかしげる。胸元が空いた黄色のシャツ。アシンメトリックの前髪がゆれる。誰かに似ている。
 あれだ、あれ、バブル時代のフィリピン女優、ルビー・モレノ。
 うなずきながら財布から4000円を取り出して渡すと、小さめの薄い紙幣が何枚かと小銭が返ってくる。
<俺は、旅慣れているんだ、だまされていないゾ>
 誇示するかのように紙幣を、彼女の目の前で数えてみるが…、合っているのか、さっぱりわからない。とりあえず、紙幣と小銭を左のポケットに入れて、タクシー乗り場へ向かう。

 到着ロビーは、あふれるほどの客と大きな荷物で身動きがとれない。フィリピン通の友人Yの「フィリピン学講座」で教えてもらったクーポン・タクシー乗り場はどこだ? それが一番安全らしい。探すが、見つからない。制服を着たガードマンに尋ねると、こっちだと親切に連れて行ってくれた。人ごみを抜けて道路を渡る。狭いプラットホームに白い大きなワゴン車が数台並んでいる。トランシーバーを持った太腕の男が立っていた。緑のタトゥー。
「ヤバイよ〜、これ。こんなのに連れていかれたら……。やばいっ、まずいよ」
 これだ〜。『地球の歩き方 マニラ編』に、<うかつに人を信用したらいけない>と書いてあった。用心深い僕はYの言葉を思い出す。
「緊張感がないのさ、日本人は」
 
 いやいや、今回の旅の僕はかなり緊張していた。
 3泊4日のフィリピンへの視察旅行。正直、行きたくなかった。
 なぜって? 
<だ〜って、蚊にさされたらどうすんのよ? 食あたりになったりしたら、嫌じゃない! 熱帯地方の感染症って、マジ怖い〜〜! 過激派に襲われたらシャレになんないよ! それに、それに、フィリピンって……、なんか、ヤバそうじゃないですか>
 10年前に教えた齊藤君には、口が裂けても言えなかった。しかし、小心者の指導医だとバレてでも、断るべきだった。そう後悔しながら、白ワゴンの太腕のタトゥーを振り切り、タクシー乗り場になんとかたどりつく。