平島 修先生
Osamu Hirashima
医療法人徳洲会奄美ブロック総合診療研修センター長●1979年福岡県生まれ。2005年熊本大学卒。福岡徳洲会病院(福岡県春日市)での初期研修および後期研修で、8カ月間の離島医療を経験する。その後、2009年から市立堺病院(現・堺市立総合医療センター)で、「堺フィジカルクラブ」を立ち上げる。2013年から加計呂麻徳洲会診療所(鹿児島県大島郡)所長。瀬戸内徳洲会病院(同)、名瀬徳洲会病院(鹿児島県奄美市)でも勤務する。2014年9月から現職。

 父は臨床検査技師、母は看護師という家に育ちました。父が日直当番の日には一緒に病院に連れて行ってもらい、検査室で一人遊ぶこともよくありました。幼稚園児だった私は、病院で働いている両親を医師だと勘違いしていたこともあり、当時は両親と同じ医師になりたいと思っていました。幼稚園の父の日企画に描いた「父の似顔絵と将来の夢」には、「お医者さんになりたい」と書いていました。

 もう一つ、医師になりたいと思ったきっかけに、医療界のヒエラルキーに対する怒りがあります。私が小学生だったある日、母が医師とトラブルになり、帰宅してからも悔し涙を流していた日がありました。気丈な母の涙に私は動揺するとともに、子どもながらに、「この母を泣かせる医師とはどんな奴なんだ」と強い憤りを覚えたのです。このことで、私は自分自身が医師になり、医療現場を明るくしたいと考えるようになりました。

ライバル不在の環境でひたすらに医師を目指す
 一方で、キャプテン翼に憧れて小学1年生からサッカーを始めました。寝ても覚めてもサッカーに没頭し、高校生になる頃には医師を目指していたことはとうに忘れていました。高校2年生になったときの偏差値は45。このとき初めて、自分の将来をまじめに考え直しました。そこで、「自分はプロサッカー選手になるために高校生活を送っているわけではない」と結論を出し、お医者さんになりたいと思った幼少の頃を思い出しました。クラスメートや部活動の監督から猛反対を受けましたが、10年続けたサッカーをきっぱり辞め、医師という目標を掲げ勉強を始めました。サッカーを続けながらでも勉強できたかもしれませんが、後には引けないという覚悟が必要だったのです。

幼稚園児の頃、「父の日」に書いた父の似顔絵と将来の夢。

 私が医師になれたのは、ライバル不在の環境の影響も大きかったと思います。入学した高校は進学校ではなかったし、そもそも周囲に医学部に進学しようと考えている人なんていませんでした。ライバル不在というと、切磋琢磨する相手がいなくて不利なように聞こえるかもしれませんが、私の場合はこれが奏功しました。偏差値45から70までの道のりを、他人と比べることなく、自分の信念だけを頼りに勉強に没頭することができたのです。

 とはいえ、医学部の壁は低くなく、最初の受験はどこにも受かりませんでした。しかしこのとき、両親は「おまえが決めたことなんだから絶対に曲げるな」と、私が医師になることを強く応援してくれました。決して裕福な家庭ではなかったため、狙うのは国立大学限定という約束でしたが、浪人を認めてくれたのです。結局、2年の浪人を経て、熊本大学に進学しました。

「本物の医療」に出会った離島研修
 初期臨床研修先は、福岡徳洲会病院を選びました。ここは、年間1万台の救急車が押し寄せる地域の救急医療の要。月8〜10回ほど当直をこなしました。そんな忙しい毎日でしたが、当直明けでも楽しく、話が止まらない指導医など、多くの人がいきいきと働いていました。そんな環境で、私も「医療ってこんなに楽しくやってもいいんだ」と考えるようになりました。

 徳洲会グループの特徴の1つは、離島などで地域研修を必ず行うこと。私も、初期研修2年目の12月から1月まで、奄美大島で初めての離島研修をすることになりました。離島での1人救急、1人当直、初めての主治医。1人できちんと対応できるだろうかと不安に押しつぶされそうになりながらも奄美大島に行きました。

 しかし、その不安は良い意味で裏切られました。入院患者さんを約20人担当しつつ、救急外来と予約外来、訪問診療を行いました。初めて上部内視鏡検査を担当したのも離島です。医師が少なかったため自分で判断する機会も多く、初めて主治医としての責任の重さを実感しました。

初期研修医時代。訪問診療の途中で寄ったガジュマルの木の下で、地域の方々と井戸端会議。通称「ガジュマル会議」です。

 高齢患者が多かったため、都会にいるよりも「死」を経験する事になりました。死亡退院となって患者さんを裏口から見送る際、「この患者さんが亡くなったのは自分の未熟さゆえで、他の医師が診ていればもっと良い結果になったのではないか」という思いに毎回駆られたのです。

しかし、私を救ってくれたのはご遺族の言葉でした。「先生に最期を看てもらえて良かった」と泣きながら感謝されたのです。医師は医学の前では無力なことも多く、救いは患者さんだったり、ご家族の中にあるものだということを身をもって学ばせてもらいました。

 こうした離島研修中の出来事は、私の価値観を大きく変えました。奄美大島の患者さんが「本物の医療」を教えてくれて、「医学を勉強した人」を「医師」にしてくれた。私はそう思っています。