7月21日、被災地の宮城県石巻市に行きました。現地で3カ月に渡りコーディネーター業務を担当された方の退任に伴い、会計や物品管理に関して報告を受けるためです。

 実は被災地に入るのは、PCATの活動にかかわって以来初めてでした。これまでは本部の事務員として、PCATの活動に賛同し、ボランティアとしてご協力いただいた多くの医療従事者の皆さんを現地に送り出す役でした。

 被災地に赴く方々に何度となく、「何時発のバスに乗ってください」「仙台で乗り換えてください」「何時発の新幹線なら通常のお仕事に間に合うように東京に戻れます」などと、ご案内していた私ですが、関西出身ということもあり、実は、東北地方に入ること自体が初めてのことでした。現地の交通事情には誰よりも詳しいといっていいほどなのに、東北新幹線に乗るのは初めて、というのは、とても不思議な感覚です。「よくそれで今まで・・・」と言われそうですが。

 恥ずかしい話ですが、被災地でPCATの活動をされている方々にお会いするのも、これが初めてでした。写真では何度か見ていましたが、被災者の方々がいらっしゃるところで実際に活動されている様子を初めて見せていただきました。

医療者でなくても、支援活動に参画できる
 PCATのスタート当初、事務方は私1人だけでしたので、支援医師の方々にお持ちいただくPCATの名刺や名札の作成が追い付かず、出発前日の夜に仕上げていました。現地でも、他の支援チームはおそろいのダウンジャケットやベストを着て活動しているのに、PCATは名札と腕章だけという状態で、現地で合同会議に参加しても、PCATのメンバーだと認識してもらえませんでした。

これが、PCATの派遣メンバー用に作ったベストと腕章です

 PCATのベストは早いうちから作らなければと思っていたのですが、他の業務に忙殺され、デザイン案を考える時間もとれずにいました。6月に入ってようやく、簡易なものではありますが、完成しました。

 今回、現地で活動されている先生方にご挨拶したところ、自分がデザインしたベストや名札を着用された先生方から、自分達が作った名刺をいただくことができました。「医療者でなくても、現地に早く入れなくても、支援活動の一部に参画できるのだ」と改めて実感し、うれしく思いました。

 幾度となく報道されてきた石巻沿岸部の様子も見せていただきました。私は15歳の頃に阪神・淡路大震災で被災し、自宅が全壊した経験があります。石巻の光景を目の当たりにした瞬間、言葉では表せない感覚がよみがえりました。

阪神・淡路大震災での経験がよみがえる
 被災した当時の私は、震災で「生き残った」と思いながら、今から見ればかなり受動的で甘えた日々を過ごしていました。しかし、大好きだった祖父が亡くなり、その遺言で英国に短期の語学留学をした大学1年生の頃から、少しずつですが、「自分は(何かに)生かされている」という感覚を抱くようになりました。

 同時に、「(今自分が経験していることを)経験したくてもできなかった人たちがいる」ということを強く意識するようになり、「その人たちの分まで、自分に出来得ることには全力で取り組もう」という指針が自分の中に形成されていきました。

 今まで、幸運なことに、色々な経験をさせていただきましたが、それも自らつかんだものばかりでなく、いただいたものなのかもしれない、と思うようになりました。この思いは、進学や転職などで環境が変わるたび、何かを経験するたびに、強くなっていきました。

 私の最初の就職先は京都にある国際会議場でした。観光都市京都で国際会議のお手伝い、というと、スマートに聞こえるかも知れませんが、実際には泥臭い仕事も多く、特に、モノや人の手配といったロジスティクス業務は必要不可欠でした。現在の勤務先である「日本プライマリ・ケア連合学会」のイベントもありましたし、「G8サミット外相会合」や「APEC財務大臣会合」など、かつては想像もしなかった現場も体験できました。経験を積むに連れ、「いつかは東京で仕事をしてみたい」と思うようになり、30歳になったのを機に転職しました。

 PCAT本部専任事務として仕事を始めて5カ月ほどが過ぎましたが、そろそろ後任者にバトンタッチし、日本プライマリ・ケア連合学会の事務局という本来業務に戻らなければなりません。しかし、阪神・淡路大震災での被災経験と、ロジスティクス業務の経験を持ち合わせた私が、たまたま東日本大震災支援プロジェクトを立ち上げた学会の事務員として居合わせたことは、何かに導かれたとしか思えません。今後も、間接的にであっても、自らの経験を社会の役に立てられたら、これに勝る活動の場はないと思っています。