飯舘村役場前。周囲はよく整備され、恐ろしいほどに普通の風景だった。

 8月29日から30日にかけて相馬市と南相馬市を訪ね、両市長および鹿島厚生病院(相馬市)と南相馬市立総合病院を訪問した(前編参照)。

 30km圏内ぎりぎりの定食屋で2日目の昼食をとった後、私たちは飯舘村に向かった。いくつかの峠を越えたところで、村の看板を見つけた。残暑の厳しいこの季節ではあったが、村は天然色に溢れていた。草木は風に揺らぎ、川はたおやかに水を湛えていた。気流に乗って雲が流れ、村はどことなく牧歌的だった。昼食を済ませた後ということもあって、「きっと、昼寝でもしたら気持ちいいだろう」などと考えながら運転していた。

 飯舘村役場で車を降りた。真っ先に、「一体、この土地のどこが汚染されているのだろう」と思った。村は、恐ろしいほど普通であった。役場周囲はよく整備され、真新しいクリニックや民家が残されていた。道路には信号が点り、トイレの水は流れ、当たり前のように携帯電話もつながった。

 ここは、紛れもない日本の国土の一部であった。目に映っている状況を伝えるとしたならば、きっとそれは、単に村の風景の紹介をするだけで終わってしまうのではないか。

 しかし同時に、ここにあるのは“無機物”だけなのではないかという感じも受けた。人がいなかった。気のせいか鳥や虫の鳴き声もなかった。

 帰りの道すがら、もう一度、周囲をよく見回すと、村が確実に崩壊に向かっている姿はあちこちにあった。

 水が抜かれ、稲作が放棄された田んぼから伸び始めている野草。アスファルトの両端から少しずつ道路に進入してきている雑草。牛のいない家畜小屋。農機と家財の放置されている家。人間が去ってしまったところで確実に浸食しつつある“混沌”を見たような気がした。

 相馬市に戻り、昨晩と同じように上先生の講演が行われた。講演は、2夜連続で盛況かつ厳粛な雰囲気のうちに終了した。

 夜8時に相馬市を後にし、福島駅で遅い夕食をとって、栃木に帰宅したのは深夜0時を回っていた。走行距離500kmにおよぶ2日間の福島県浜通りツアーではあったが、不思議なことに疲れはあまりなかった。

今、何を考えなければならないのか
 飯舘村で、「ここの線量は、チェルノブイリの避難区域に指定された線量と同じですよ」と教えられた。当たり前のことだが、放射線を見ることも、嗅ぐことも、体感することもなかった。しかし、そのことは「わが家から車で3時間少し走ったところにチェルノブイリがある」という事実を否定する根拠には全くならなかった。

 汚染とは一体何だろう? 「汚れに染まる」という言葉の響きに、私は身のすくむ思いがする。私が今いる場所の空と大地は汚染区域につながっている。違う世界のどこかで何かが起こっているのでは決してない。

 地震と津波、それに続く原発事故で私たちは何を考えなければならないのだろうか? それは、「自然の原理だけではなく、人間は自分で創り出したシステムですらコントロールできずに、その不完全さに悩まされている」ということである。

 この国には、地震と火山と熱帯低気圧の通り道と、いつ氾濫するかも分からない河川、いつ崩れるかも分からない土砂がある。世界中のどこと比べても、「危なっかしい」としか言いようのない地表の上に、この日本はある。

 大地は動くものだし、地肌は割れるものだし、火は噴くものである。津波や台風が訪れれば平地は水に晒され、堤防の決壊や土砂の崩落が起こるのも、むしろ当然のことである。自然などというものは、どんなに想定しても、いつかは想定外の猛威を振るうものと決まっている。