鹿島厚生病院の渡部善二郎院長と(右は上教授)。

 院長からは悲痛な叫びを聞くことになるのかと思っていたが、ここでも予想は外れた。彼らの苦悩は、極めて限定的なものだった。「併設する老人保健施設に入所している患者が一杯で、どうにもならない」「スキルを持った常勤医師がもう少し居てくれればありがたい」という、それだけを聞けばどこの病院でも抱えているような一般的な悩みであった。

 避難した職員が少しずつ戻ってきてくれることは喜ばしいが、人件費に見合って患者数が増えなければ、病院の赤字が続く。市民の健康を担保する病院あっての市の復興であろう。私が言うのも大変おこがましいが、被災地最前線の病院を失わせるわけにはいかない。

 自身の活動の紹介のために、私は自著『医者になってどうする』と『医者を続けるということ』(ともに中外医学社)とを差し出した。それらは、私が私なりの信念で綴ってきたエッセイであった。「個人の偏った考えだ」と批判されようと、医療の現実を説き、医師を続けるための思考方法を述べてきたつもりである。

 本の表紙を一瞥した院長は、「今はやめられないなぁ」とつぶやいた。当たり前である。工夫しなければ医師をやっていられない私とでは、モチベーションが根底から違っている。場違いなことをした自分を、私は恥じた。

 市長にしても院長にしても、震災当初から逃げることなく奮闘してきた。だが、実際に会った彼らは起こった事実を淡々と語るだけであった。私のような安穏とした生活を送っている医師には到底分からない苦労があったのだろうし、これからも続くのだろう。

 私は上手くいっていたのかもしれない。しかし、そう思いながらも壁を感じ、焦っていた。「何かがしたい」ということは、これまでの何かから逃げようとしているだけなのか、結局のところ自己満足を得たいだけなのか。少なくとも福島で会った彼らは、私とはまったく対極にいる人たちであった。

緊急時避難準備区域(原発30km圏内)のすぐ外側で。

 30km圏内の緊急時避難準備区域をかろうじて免れた南相馬市の国道6号線沿いには、自動車ディーラーやコンビニ、ファミレス、ガソリンスタンドなど、日本のどこにでもあるような景色が広がっていた。しかし、オープンしている店は3割程度だった。

 立ち入り禁止の立て札の目の前に一軒の定食屋があった。震災後1日も休まず営業をしているというこの店で、私たちは昼食をとることにした。

 よくある田舎の定食屋であった。1800円が少し割高だとは思ったが、看板メニューの「ホッキ焼き定食」を注文した。家族経営のようで、厨房のご主人と給仕の女将と子どもとで、5人くらいの従業員がいた。1人いた客は、私たちが入店すると、間もなく食事を終えて出て行った。

 イカはプリプリで、揚げ物はカラッと揚がり、キャベツの千切り、豆腐、漬け物、味噌汁とが添えられていた。50m先は30km圏内という場所で、私は全ての食事をたいらげた。それが、この地に足を踏み入れた者の義務だと思った。最高に美味しいというほどではなかったが、昼時の腹を満たすには充分な味とボリュームで、そして、何よりも落ち着ける店だった。

 折しもテレビは野田総理大臣が誕生した瞬間を捉えていたが、店の従業員は誰もテレビなど見てはいなかった。