施設の方たちは優しく、そして、言い方は難しいが、要するに「覚悟を秘めている」人たちであった。他県から見学に来た外部の人たちに対してまでも、いつも笑顔で、常に真面目に接してくれた。意外にも、彼らから私は、震災の本当の恐ろしさを実感することはできなかった。

 彼らの表情や仕草から、少しでも恐怖や不安を感じ取ることができたのならば、私は同情もできたし、ささやかではあるが慰めることもできたかもしれない。それこそ来た甲斐を感じたであろう。しかし、私は何も分からず、他県から来た客として、丁寧にもてなされるだけであった。

 これまでの私の大学病院での生活は愉しかった。「愉しい」で語弊があるのなら、「興味深かった」と言うべきか。疑問も不安もなく、これまでやってきた。救えた患者も少なからずいたかもしれないし、医学の発展にも多少は寄与できたかもしれない。年代を重ねるごとに業績も増え、院内での役職も増えた。社会的な使命を背負い、前途に対して明るい希望もあった。

 しかし、私は立ち止まっていた。そして、迷っていた。「何が?」と問われても明確な返答はできないのだが、外に目が向けば向くほど、中のシステムの限界を感じずにはいられなくなっていた。

 私は何をしに福島に来たのか? 原発反対運動をしたいのか? 被災地ボランティアをしたいのか? その前に、まずは自分の足元からではないのか。自分に満足でき、余裕があって初めて、他人のこと、世の中のこと、日本のことなのではないのか。

 被災地に行って何かをすることと大学病院で医療を続けることの、どちらを優先すべきなのか。准教授として「地に足を付けて」とか、「王道を進め」「大学に貢献せよ」という意味は分かるし、「足元のおぼつかない奴に、何が被災地だ」と問われれば、何も言い返せない。

 内面から湧き上がる焦燥感や虚無感を誤魔化すために、私はここに来たのか。この被災地の視察から一体何を感じ取りたいのか。そして何をしたいのか…。そんなことを考えているうちに、いつの間にか私は眠りについた。

南相馬市の桜井勝延市長と。

奮闘する市長、院長に会って
 翌日は、相馬市長、南相馬市長と面会した。原発周囲の市町村の人たちは紛れもなく被害者であった。それも天災ではなく、人災の。東京電力が吹聴してきた安全神話に翻弄され、政府が音頭を取ってきた原発推進に踊らされ、事故後も「安全」という言葉に騙されてきた。市町村民の怒りは計り知れない。

 しかし、両市長の口から苦労話は聞かれなかった。内心忸怩(じくじ)たる思いはあるのだろうが、「市民の方々の怒りは分かるし、減税を訴えたい気持ちはもっともだけど、私たちはビジョンを示さなくてはね」と、あくまで前向きな発言であった。

 国の判断を待っていたのでは物事は動かない。行政には現場力が必要である。その現場力を発揮する礎が市長の存在であろう。相馬市や南相馬市には、被災地に立って「オレに任せろ」という人がいた。市から人が避難し、流出していくときでも“籠城宣言”する人がいて、陣頭指揮を取る人がいた。それをできる人が身近にいた。月並みな感想かもしれないが、それはとても素晴らしいことだと思った。

 続いて、南相馬市の鹿島厚生病院と南相馬市立総合病院とを訪問した。両院長は震災後も現場に踏み留まり、病人や怪我人の最後の砦として病院を機能させた。訪れたときも相当数の人が待合室にいた。もっとも、患者の中に子どもの姿を見ることはなかったが。