相馬港付近。家屋があった場所のほとんどは基礎とコンクリート・ブロックになっていた。

 そんなことを考える中で、私はひとつの試みとして“もの書き”としての新たな自分を模索していた。医療の現実を伝えるために数冊のエッセイを著し、インターネット・メディアにも文章を寄稿し始めていた。私の論述に対して賛同の意を唱えてくれる人もいたが、眉をひそめる人も多くいた。「これから自分にできることは何か」ということを考え、試行錯誤の毎日が続いていた。

 そんな年の春に、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0を記録する東日本大震災が起こった。津波は東北地方太平洋沿岸をすべて飲み込み、死者と行方不明者とを合わせて、2万人に迫る大災害となった。福島県浜通りにある福島第一原子力発電所では、津波によって外部電源を失った原子炉が炉心溶解を起こし、水素爆発が発生。大量の放射性物質が放出され、国土に降り注いだ。

 午後6時から上教授の講演が始まった。相馬市PTAの主催によるもので、テーマは「放射線の影響について」。主な対象者は子どもを持つ親で、開会時間には、300人を収容できる会場がすべて埋め尽くされた。

 上先生は、放射線に関する基礎的な知識を概説し、現在の相馬市の汚染状況を詳しく説明した。15歳以下の330人、15歳以上の569人を対象として、自らの研究グループで行ったセシウムの内部被曝の測定結果を公表し、「現在のところ、被曝状況はそれほどひどいものではないだろう」という見解を示し、そのうえで、これからの除染作業の必要性を説いた。

 当たり前のことだが、この震災にとって、私という存在はあまりにも小さかった。原発や放射能に関する自分の科学的知識を考えれば、巷に溢れている言説に何かを付け加える能力など何もないし、仮に知識があったとして、それを伝える方法もなかった。

 「セシウムの半減期は30年で、プルトニウムの半減期は2万4000年である」とか、「福島原発の事故は、広島型原爆の約50発分の“死の灰”をまき散らした」という事実を前にして、誰それが悪いと言いたくなるのも分かるが、それこそ私程度の人間が何の権利で言えるであろうか。私などという存在は、被災地に対して一切無力であった。

 夜は、地元の人たちを中心とする食事会に誘われた。海岸沿いの、いち早く営業を再開したイタリア料理店を貸し切って行われていた。私の知り合いは、もちろん誰もいない。そんな会に参加するのは久しぶりであった。

 最近は飲みに行く機会も減ったし、見知らぬ人たちの会に参加するようなストレスのかかることもなるべく避けていた。ましてや被災地という特殊な場所に、よそ者がいきなりお邪魔しては、かえって気を遣わせるのではないかという懸念もあった。

 しかし、それは杞憂に終わった。そこにいる人たちは、私を自然に受け入れてくれた。「神経内科医はどんな病気を診るの?」「親戚がパーキンソン病って言われたのだけれど、どういう病気?」「妻が多発性硬化症の患者会を支援しているが、君は専門なの?」。そんな質問を矢継ぎ早にされた。

 参加者たちの肩書きは本当に様々であった。市長や福祉事務所職員のほか、高校教師、経営コンサルタント、ジャーナリスト、世界こども財団の職員の他、モルガン・スタンレーの社員もいた。

 ここにはたくさんの、さまざまな人たちがいる。だったら私のような、ぽっと出で「何か役に立ちたいんですけど」なんて言っている人間が1人くらいいても許されるのではないか。この場所は、私をそんな気にさせてくれた。

 食事会がお開きとなり、私たちを泊めてくれる福祉施設の部屋には、すでに布団が置かれ、お茶やビール、つまみが用意されていた。