南相馬市役所の線量計の前にて。

 8月29日に相馬市に入った。東京大学医科学研究所の上昌広教授の協力により、私は初めて、東日本大震災の被災地に足を踏み入れた。

 現地での待ち合わせは夕方の6時であったが、3時頃を目標に、私は栃木を正午に出発した。約束の時間まで、被災した浜通りをこの目で見て回りたかったからである。津波被害の痕跡を探すために、私はまず相馬港へと向かった。中通りから国道115号線に沿って車を走らせたところ、沿岸近くで景色は一変した。

 一言で言えば、過疎化の進んだ漁港−。しかし、何かが異なっていた。ここは、うらぶれた漁村ではない。重要港湾のひとつとされる相馬港である。地元福島県はもとより、仙台市・宮城県南部、山形県南部などを背後圏とする海の玄関口で、物流の拠点としての役割を担っていたはずである。

 沿岸部にはアスファルトの道だけが残されていた。それは周囲に家屋があったことを示唆するものだが、道の両脇のほとんどは基礎とコンクリート・ブロックになっていた。建造物が倒壊している中で、鉄筋コンクリートの骨組みだけが何戸か残されていた。

 「ここは、いったい何なのか…」。テレビや雑誌を通じて被災地の風景はイメージできていたつもりだったが、それらは切り取られたほんの一部の映像に過ぎなかったことを思い知らされた。遠くの高台には残された家屋が見えたが、平地は一面、土砂と瓦礫であった。

 アスファルトの上をダンプやトラックが往来していた。おそらくは作業車であろう。重機や警備員の姿も見られ、そういう意味では、ここは手を付けられる場所であった。

 私の前を、県外ナンバーの普通乗用車が慣れない運転で通り過ぎた。行き先を眺めていると、その車は瓦礫の中で停車した。中から出てきた人たちは、しばらくその場に立ち尽くしているようだった。亡くなられた方の親族かお知り合いなのだろうか。私は後ろめたさを感じ、その場を後にした。

 栃木からノンストップでやってきて、ガソリンランプが点灯した。海辺近くの給油機が1台しかない小さなスタンドに入った。店主であろう女性が出てきたので、「ここは、少し高い所だから津波の被害を免れたのですか?」と尋ねた。

 「あそこを見てごらん、あの線まで波が来たよ」。外壁の半分くらいの高さの位置に、浸水の痕跡がくっきりと残されていた。「ガソリンタンクは水浸しになったよ。でも何とか復活させたわ。津波の影響については、よく聞かれるのよね」と、スタンドの女性は笑っていた。

 瓦礫の中から、泥にまみれたパイプ製の車いすを見つけた。車いすの主は無事だったのだろうか。逃げ遅れて流されてしまったのだろうか。私が考えても意味がないこととは思いつつ、ぼんやりと海辺を眺めた。

 海はどこまでも青く、いつまでも穏やかだった。「こんなに静かな海が…」。目の前の風景は、津波の猛威を全く想像させてはくれなかった。ましてや、この海が数多の人の命を一瞬で奪ったなどということも。

何をしに福島に来たのか?
 2011年3月は私の人生に転帰が訪れようとしていたときだった。医師として一定の業績を上げたことが評価され、講師から准教授への昇格が内定していた。

 しかし、私はその半年ほど前から、何となく釈然としない毎日を過ごしていた。悩める患者や改善されない医療環境を見るにつけ、私は、「これまでの研究がいったい何の役に立ってきたのか」ということを自問自答し始めていたし、「もっと、医師として他にすべきことがあるのではないか」という思いを日増しに強くしていた。