先月、日本小児科学会の震災支援医師として福島県いわき市で小児医療に従事しました。4月には2度にわたって宮城県石巻市で診療をしましたが、それ以来、半年ぶりの被災地でした。

 宮城と福島の状況は違うと思いますが、半年のうちに道路や市街地の復興が、目に見える形で進んでいたことは印象的でした。しかし私が専門とする「子どものこころの診療」の場では、月日だけでは解決しきれない様々な病状の子どもたちに会いました。

 これから数回に分けて、被災地診療の中で自分が感じた、そうした子どもたちの病理についてつづりたいと思います。今回は、半年ほど時間をさかのぼりますが、4月に石巻市で診療にあたった際の子どもたちの様子です。

4月の宮城県石巻市。道路は冠水し、ライフラインの復旧もまだでした。

 4月中旬、白樺派の巨匠、志賀直哉の出生地である宮城県石巻市を訪れたときは、ライフラインの電気とガスもまだ復旧しておらず、自衛隊の配給と給水車に頼る生活でした。

 周囲の景色は、元禄2年に松尾芭蕉が「海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり」(『おくのほそ道』)と詠んだほどの隙間ない家並みが、根こそぎ平地と化して、冠水と瓦礫で通行できない道が多く残っていました。

 診療は国際医療ボランティア活動を行うNPO「Japan Heart」のコンテナ仮設診療所で行いました。私は水と食糧、寝袋を持参し、薬も、降圧薬、高脂血症治療薬、感冒薬、胃腸薬、抗精神薬などを大量に持ち込みました。

 診療所は、医療法の規定に基づく「仮設診療所」の開設許可を得て運営されていました。災害救助法に則り保険の請求はなく、診察代金の患者自己負担はすべて無料でした。

コンテナ仮設診療所の外観と診察室内の様子です。

 外来患者は日に50人余りでした。私はゆっくりと話を傾聴することを心がけました。幾人もの方々が、診察の後半になると、亡くなられた家族のこと、震災後の生活のこと、見通しの立たない将来のことなど、さまざまな不安について涙ながらに話していかれました。

 こうした訴えは特に高齢者に多く、診療の中で「どう扱ったらよいのか…」と思案し、ただただ傾聴し続けました。しかし診療開始から数日経った頃、子どもたちからはこのような “負の訴え”がほとんどないことに気が付きました。患者の約半数が小児であるにもかかわらずです。

 私の所に訪れた子ども達の多くは、診察の前にきちんと挨拶をしてくれました。聴診と口腔内の診察を終えて薬の説明をすると、私が持参したシールや折り紙、のど飴を恥ずかしそうに指差しました。私がこれらの“おみやげ”を手渡すと、みんな「ありがとう」と手を振って、診察室を後にしました。

 石巻市は5700人余りが震災により瞬時に命を失った地区で、震災孤児の数も数百に上ります。阪神大震災の死者が6000人余りであったことを考えれば、その被害の甚大さがイメージされると思います。こんな実状を考えれば、診察を終えおみやげをもらって帰っていく子どもたちの心中深くに、すさまじい葛藤が潜んでいたであろうことは、疑う余地がありません。

 皆が配給や炊き出しに頼る生活の中で、「子どもは周りの大人から、不平不満を言うなと注意されているのだろうか」と、最初は思いました。あるいは「子どもゆえに、自分の心の状態を伝えることをしないのか」とも考えました。