震災支援から帰ってきて3カ月もたってしまった。

 震災復旧や原発事故は収束の兆しが全くなく、今でも状況は変わらない。いろんな問題が出てきているが、何が正解なのかよく分からない。ただ今でもがれきの山があり、原発からは放射能が出ていることだけは間違いない。

 いずれ事態が一段落したら、責任問題の議論が始まるだろうとは思っていた。でも実際は、問題が全然解決しないまま責任追求が始まった。これだけ国が混乱してしまったのでは、誰かを責任者としてギロチンにでもかけないと収まりが付かないのだろう。しかし、私の中で一番悪い奴は初めから決まっている。菅総理より民主党より東電より原発より、何より悪いのは三陸沖のプレートである。

 こいつが変に動いちゃったから地震が起きて、ついでに津波まで起こしやがった。こいつだけは許せない。どっか人や動物もいない所で動けばいいのに三陸沖というすぐそばに人が暮らしている所でずれるから、逃げ出す時間もなく津波が来てしまった。しかも最近はあまり大きな津波が来なかったから、10メートル足らずの防潮堤で防げるだろうと安易に思ってしまった。せめて徐々に高い津波が何回か来ていたら、もうこれ以上高くなったら危険なので高台に逃げるしかないと思えたのに、いきなり18メートル超はないだろう。

 福島なんて絶対安全とみんなが思っていた。一部の人が原発反対と言っていたけど、ほとんどの人は反対集会なんて参加しなかった。これもプレートの奴が時々、異様に大きな地震を起こして原発停止にでもしていれば、もっと反対派が多くなっていたかもしれない。いずれにしてもいきなりマグニチュード9はないだろう。

 ごちゃごちゃ言っても仕方ない。日本の、いや世界の歴史において、私たちは2011年東日本大震災のときに生き残った日本人となる。もし50年後生きていたら大震災の生き証人なんて言われるに違いない。孫からはどうして生き残ったのか聞かれるかもしれない。少なくとも今年の年末の「ゆく年くる年」では「いい1年でした」なんていうコメントはないだろう。戦後最悪の年として記憶され、震災後生まれなんて言葉ができるだろう。大事なのは、生き残った人間が、本当に大事なことは何だったかを、子孫に対してどういう風に伝えていくかだと思う。

 まず伝えるべきは、世界を驚かせた日本人の秩序正しい行動だろう。そして勇気を振り絞り活躍した自衛隊、警察、消防、東電社員……。もちろん、ダメな部分はたくさんあった。しかし、そこで誰かをつるし上げて満足した人間より、子孫のためにこの大災害からどうにか回復しようと苦悩した人々こそ、将来感謝と尊敬の念を抱かれるだろう。私自身、戦後、焼け野原となった日本が、どんな風にして復興したのか詳しくは知らない。でもその時代の大勢の日本人が将来の子供たちのために頑張ったことだけは間違いない。今やマスメディアの報道は現状への不満ばかり目立つが、未来のために何をしなければいけないか考えることが一番大切だと思う。

 私のような医療人ができることは限られてはいるが、3.11以前の医療とそれ以後の医療では、頭を切り替えていかなければいけないと思う。3.11以前のセーフティーネットの考え方では未来を救えないことは確かだ。3.11以降の新しい医療・介護・福祉体制は、今回のように被災者に何カ月間も段ボール生活を強いるものであってはいけないと思う。また、ITやデジタル偏重もどうかと思う。津波で使い物にならなくなった電子カルテ。あの導入を推進してきた人たちは、どう落とし前をつけてくれるのかな。

 さらに、そろそろ医師に対しても、研究を主とするスペシャリストと、臨床を主とするジェネラリストに分けた教育システムの確立が必要ではないだろうか。被災地の医療支援の現場でスペシャリストたちが、自分の専門を全く生かせず右往左往している場面があちこちで見られたという。今回、私の知る限りでも熊大から消化器外科の馬場秀夫教授や乳腺・内分泌外科の岩瀬弘敬教授らが被災地に向かったが、自らスコップを手にしていたとの話を聞いた。それだけの度量を持ったスペシャリストなら大歓迎だが、自分の専門を生かせる場がないと分かると、何もせず早々に現場を去った医師もいたようだ。被災地の医療支援で本当に役立っていたのは、プライマリケア在宅医療を常日ごろから実践していたジェネラリストたちだった。その厳然たる事実を医学界はしっかりと胸に刻み付けるべきだろう。

 この震災で医療界も少しずつ何かが変わり出す気がしている。熊本でも、今から大災害が起こったときの準備をしておくべきだろう。しかし、しばらくは何の役にも立たないに違いない。1000年の間何も起こらなければ、未来の医学生から「なんで内陸に住んでいる俺たちが、津波の救急医療なんて学ばなければいけないんだ」と文句を言われるかもしれない。しかし震災を経験した私たちが、事実を風化させず伝え残していけるならば、はるか先の未来に未曾有の大災害が起こったとき、先祖が作った医療システムが役に立って感謝されることがあるかもしれない。宮古市の「ここより下に家を建てるな」の石碑のように。それが被災して亡くなった方へのせめてもの弔いにもなるだろう。

 と、ここまで書いたところで携帯が鳴った。被災地の医療支援で一緒だった染谷クリニックの染谷貴志先生だ。北海道で開かれている日本プライマリ・ケア連合学会で、皆がそろったとのこと。電話を通してあの仲間たちの声を久しぶりに聞けた。うれしかったが、かなり聞こし召されているようで、「今からヘリコプターを操縦して北海道まで来い!」と出動要請される始末。この人たちはきっと1000年後も生きているのでは、と思って携帯をそっと切った。