広島大学病院のDMATは震災当日の3月11日に5人を派遣、翌12日には緊急被曝医療派遣チーム7人を現地に向かわせている。その1週間後には第2班がスクリーニングを行う手際の良さである。私がビッグパレットに訪れたころには、既に13班目が館内に救護班室を完璧に機能させていた。とにかく広島チームの勇気とフットワークの良さには感動を覚えた。菅野主任からは、「熊本に帰って医療支援の話でもする機会があれば、広島チームのことを福島の避難民全員が感謝しているとぜひ伝えてください」と言われた。

 予定していたアセスメントも終わり、天栄村に戻ったときは夜も更けていたので、吉田先生にはメールで報告書を送った。翌29日、吉田先生に福島空港まで送っていただき、伊丹経由で熊本に戻った。病院前で職員に出迎えられたのは、何となく気恥ずかしかった。

頑張れ東北!すごいぞ支援者たち!
 九州に帰ってから、東北のことについて質問攻めに遭うことは予想していた。「実際行って現場を見ると、やっぱりテレビとは違うでしょう?」が一番多い質問。その答えは決めていた。「いやー違いますね。想像していた以上にひどいものです。復旧、復興にはまだまだ時間がかかります」と言うと、そうでしょうそうでしょうとみんなが納得してくれる。でも本当のことを言うと、がれきの山はテレビがパノラマになっただけでそんなに変わらない。

 本当に違うのは、がれき映像の奥にあるバックヤード(裏側)であった。

 まず一つは、あまりにたくさんの日本人が苦悩し、絶望していることである。被災者の苦悩がどれほどかは、実際に接した私でさえも到底分からない。絶望の中にいる被災者たちが、これから何を目標に頑張っていこうとしているのか想像すらできない。何もない中から出発し、生き続けなければいけないというつらさは計りしれない。

 でも東北の人々は懸命に頑張っている。ただただ頭の下がる思いだった。時々見せてくれる笑顔は支援する私たちの方が救われた。あの避難所の光景は私の頭の中に深く刻まれ、一生忘れられないだろう。

 もう一つが、その苦悩している東北の方々を日本中から自衛隊、警察、消防をはじめ、その他多数の団体が支援に来ていたことだ。福島原発に放水に行った東京消防庁の職員も本当にすごいと思ったが、岩手、宮城のそこここで支援している方々も本当にすごかった。もうすごいとしか表現しようがない。みんな本気で支援しに来ている方々ばっかりである。そんな方々が日本中から何千何万と集まっている光景は実にすごかった。

被災地の支援にぜひ参加を
 「困っている人がいたら、手を貸す」。東北では今、この当たり前のことが当たり前に行われている。気仙沼から女川に向かって走っているときだった。側溝にタイヤが引っかかり、2台前の車が止まってしまった。前の車の運転手と共に私も車から降り、後ろを振り向くと、一本道なので私の車の後に6台の車がつかえてしまった。しかし、6台全ての運転手が一斉に車を降りてこちらに走り出している。人数がそろったところで、「せーの!」の掛け声一つで車が持ち上がった。あとは「ハイ、オツカレ」とそれぞれの車に戻った。

 それからふと思った。「支援期間も残り半分になって、やっと周りの支援者たちに少し近づけた」と。ここに集う支援者たちは誰かれ問わず、何でもするという気構えを持ったすごい人たちであった。熊本の街で毎日飲んだくれているだけのダメ虎だった私も、この人たちの端っこに、仲間に入れてもらえればいいのだけど。

 一部の報道で金庫ドロボウなどの卑劣な輩のことが報じられていたが、私が行っていた間にはそんな話は全く聞かなかった。どんな社会にもそんな人間がいるが、ここ被災地にはその何万倍もの善良な心優しき人たちがいた。これから先も日本のどこかで未曽有の天災が起こるかもしれないが、そのたびに進んで助けに来てくれる人間がこれだけいるならば必ずや復活できると確信した。東北は、まだまだ支援を必要としている。行く気になれば行ける。この未曽有の大災害に出合ってしまった時代の人間として、機会があればぜひ支援に参加することをお勧めします。今からでも遅くはありません。

 東北で出会った方々、支援で出会えた方々、特にお世話になったPCATの方々に、このブログをお借りして感謝と尊敬の気持ちを伝えたい。ありがとうございました。また皆さんとどこかでお会いしたいです。