両施設にはそれぞれ100人以上が避難していた。当日は東京電力の住民説明会があり、ピリピリムードが充満していた。そんな中でも、担当の方が施設を案内してくださり、状況を聞くことができた。

 ここはライフラインや医療が充足していた。しかし誤解してはいけないのは、充足しているといっても、段ボールの壁に囲まれて毛布で寝る生活は以前のままということだ。医療にしても、施設の方々や家族がどうにか近隣の病院の外来に患者を連れていける程度の充足である。宮城の避難所よりましな印象だが、我々の普通の生活からは遠くかけ離れている。避難所を見ていると普通の生活水準はどんなものだったのか、忘れてしまう。

 次に向かったのは、原発から30キロの田村市役所。保健課の石井裕実子課長が忙しいにもかかわらず応対してくださる。田村市内では医師会が巡回診療を行い、今後、検診を行う方針もあり、医療体制は比較的整っているように思えた。帰りがけに田村市内を車で走っていると、そんなに建物の被害が見受けられないのに、ただ原発に近いというだけで町が何となく閑散としている。宮城では感じられなかった重い空気だ。天栄村に帰って吉田先生に報告し、翌日は郡山周辺を回ることにする。

避難者を受け入れるスタッフから聞いた不安
 28日の朝は6時に起き、早めに出発した。何しろ福島県は広い。福島は原発のある浜通り、福島市や郡山市のある中通り、内陸にある会津と、縦に三つの地域に分かれており、それぞれ違う県のように人の気質も文化も違うと聞いた。まずはキャンプ場「郡山自然の家」へ向かった。こちらも100人ほどの避難者がいてライフラインは充足しているが、高齢者が多く、医師が回ってくることはほとんどないとのことだった。というわけで、施設に着くなりすぐに診察依頼を受けた。

 支援物資の医薬品を使用して診療を始めると、「お医者さんが来ている」との情報がすぐに行き渡り、次から次へと入所者が集まってきた。見かねた施設のスタッフの人から「大変ですから昼までにしましょう」と言われ、その後、事務所でおわびされたが、「こんなことも私たちの支援活動ですから」と説明した。その際、スタッフの人から少しだけ本音を聞けた。「震災だから協力しなければいけないのは理解しています。しかし、自分たちには十分な医学的知識がありません。いつまで避難所の運営支援を続けなければいけないのか…」。長期戦に入り、支援する側の不安も徐々に出始めていると感じた。

 次に向かった郡山市青年会館も同様で、重症者はいないので医師は回ってこないという。応対していただいた施設の責任者である飯野造酒男課長も、本来は福島県農村整備部の課長さんだ。私が到着してあいさつすると、「とにかく薬品倉庫になっている部屋を見てください」と案内された。施設には支援の薬剤が山積みされていた。目の前に速乾性手指消毒薬の段ボールがあり、「どう使えばいいのか」と尋ねられたので、「とりあえず各部屋に配りましょう」と指示を出す。その後、他の薬品を薬効ごとに仕分けして用法用量をそれぞれに書いていき、市販薬以外は医療従事者に聞いてから使うように伝えた。やはり施設によって医療レベルにはかなりの格差がある。こうしたちょっとしたことでも、末端まで行き届くにはかなりの時間がかかっている。

広島の派遣チームの勇気とフットワークに感動!
 この日、最後に向かったのが、郡山市で最大人数を収容している多目的ホール「ビッグパレットふくしま」。避難者1500人を超える施設だった。福島県建設住宅部の菅野貴夫主任に案内してもらった。ここの環境も他と変わらずライフラインは充足しているものの、段ボールは階段、踊り場にまであふれている。一体この光景はいつまで続くのだろうか。

 ただ、ここは医療に関してはかなり充足していた。なぜ1500人以上を抱える施設なのに、十分な医療が提供されているのか、訳を聞いて驚いた。原発事故の後、医療支援団体の中から「福島だけは行きたくない」との声があった一方で、全国に先駆けて広島チームが派遣を申し出てきたと菅野主任は話してくれた。放射能アレルギーの最も強い県であるはずの広島がなぜ積極的だったのか、私は不思議だった。確かに福島県のどの施設に行っても、医師だけでなく看護師、保健師さんたちも、広島県から来ている人が多いという印象を受けた。

 帰ってから調べて分かったのだが、広島大学は、1999年に茨城県東海村で起きたJCO事故を機に整備された緊急被曝医療体制の要となる医療機関であり、日本に2カ所しかない3次被曝医療機関の一つであった(もう1カ所は放射線医学研究所)。