「福島に行ってくれ」と告げられた4月26日の夜、宮城県石巻市の福祉避難所「遊楽館」へ一緒にやってきたPCATのメンバーにお別れのあいさつをした。正直、もう少しここで支援活動がしたかった。このメンバーとあまりに気が合ってしまったので、別れのつらさが倍増してしまったのだ。

 しかし明日目指さなければならないのは、原発事故のあった福島。わき起こる不安をぬぐい去ることはできない。宮城の満天の星空を見ながら、自分がいつも逆境に追い込まれるのは、やっぱり逆境を愛するからなのかな、なんてバカみたいな感傷に浸りながら寝袋に入った。

津波の恐ろしさを改めて実感
 翌27日朝、遊楽館のメンバーとみんなで記念撮影をして、別れを惜しみつつ出発した。まずは本日最初の目的地、気仙沼市へと北上した。しばらくは田舎の何でもない田園風景が続いていたが、徐々にがれきが現れてきた。海なんてまだまだ見えない場所なのに、がれきの山がある。今回の津波はこんな内陸まで川に沿って押し寄せてきたのかと、改めて津波の恐ろしさを実感する。

 南三陸町から海沿いの国道に出ると、テレビで見慣れた引き切らない海水と、それに埋もれた大量のがれきが目に飛び込んできた。しかし、テレビと違うのは臭いだ。思わず車の窓を閉めた。それにしても、私と同じころに宮城に来られた天皇陛下は、この臭いの中、マスクなしで黙とうされていたのだ…。

気仙沼中学の避難所で診療を続ける村岡正朗氏(中央)の話を、PCATで一緒に医療支援に行った染谷貴志氏(左)とともに聞く。

 気仙沼中学の避難所に着き、待ち合わせていた染谷貴志先生との用事を済ませた後、自らも被災しながら、保健室で診療を続けている村岡外科クリニックの村岡正朗先生と救護室でお会いした(写真)。遊楽館」と違い、この中学校の避難所には自衛隊や他の支援団体が混在していたので、その分、情報伝達や協力体制の構築が大変だろうなという印象を受けた。支援終了後、染谷先生と「いつか一緒に飲みましょう」と再会を誓い、気仙沼に別れを告げた。

ナビや地図なんて使い物にならない
 いよいよ福島だ。向かうは天栄村国民健康保険診療所。郡山市の南西約40kmに位置する国保の診療所で、避難所の診療を震災当初から院長の吉田孝司先生が担当し続けている。高速道路を使い約6時間南下するコース、ナビは付いていたが東北に不慣れな九州人が運転したらどうなるか。当初は女川まで南下した後に高速へと思っていたが、海岸沿いはまだ通行止めが多く、結局、気仙沼まで引き返す羽目に。被災地ではナビや地図が使い物にならないことが分かった。

 やっとの思いで三陸自動車道に乗り、仙台から東北自動車道に入った。高速道路はまだあちこちが隆起、陥没しており、付け焼き刃の道路工事の跡が生々しかった。数珠つなぎの自衛隊と警察の車両もすごかった。災害派遣の車両は台数が多く、しかもゆっくり走るので、高速道路の走行車線が自衛隊と警察の車両ばかりになる。どんなに追い抜いていっても、どこまでも自衛隊車両がつながっている。対向車線は見渡す限り警察車両だ。今回の震災後の捜索や復旧作業を、全国の自衛隊と警察が全力を挙げて頑張っても、なかなか追いつかないのが、この車両の列を見ても実感できる。

ライフラインや医療は充実していたが…
 郡山インターを降りて山道を会津方面に1時間ほど走ると天栄村だ。熊本の黒川温泉をほうふつとさせるとてもいい所だ。吉田先生と相談して、次の日から原発周辺の避難所を回ることにした。

 避難所を最短で回るルートを考えておき、翌28日、その最初の目的地・大玉村へ。大玉村は福島市と郡山市の間にあり、原発付近の富岡町の住民が避難している。まず避難所に使われていたレジャー施設「フォレストパークあだたら」と「アットホームおおたま」を訪れる。目的の一つは、医療的行為が必要な人がいれば、車に積んでいる医療器具と薬剤を使って治療すること。もう一つは、その施設において現在何が必要なのか医療のニーズを調べ、アセスメントすることだった。