2006.03.18

【英国医療事情 連載第15回】ナイス!なガイドライン

森 臨太郎
 英語で「良い」という場合には様々な言葉を使い分ける。goodやnice、excellent、brilliant、fine、などなどいろいろあるが、すべて微妙に違う。Niceという言葉は、普通に良いときにも使うのだが、人を指して、「優しい」だとか、「親切」、「人当たりがいい」というような意味で使う場合も多い。ちなみにExcellentというのは単に良い、悪いではなく、非常に優れている場合に使う。

 NICE(National Institute of Health and Clinical Excellence http://www.nice.org.uk/) は、国民医療サービス(NHS)内の独立組織であり、ブレア政権の保健医療改革の目玉として設置された。主な仕事は、病気や症状に関連した診療指針を作成する「診療ガイドライン・プログラム」、医療技術の医療効果や経済効果をまとめる「診療技術評価プログラム」、手術や手技に関する効果などをまとめる「介入的手技プログラム」を3つの柱としている。最も大きな仕事は、いわずと知れた診療ガイドライン・プログラムである。2005年からは、診療行為だけでなく、公衆衛生的な施策、たとえば国民の健康に関連した食生活などに関しても、ガイドラインを作成するようになった。

 なぜ、診療ガイドライン作りが保健医療制度改革の目玉になり得るのだろうか。

 誤解を恐れずに単純に書く。NHSはすべて税金で賄われ、診療を受けるのはすべて無料という極めて社会主義的な制度として始まった。その後、時間とともに組織疲弊を起こし、非効率化、質の低下が問題となっていった。サッチャー政権時の自由主義化改革により、一部の地域の効率は上がったものの、質の向上にはつながらず、地域格差を生む結果となった。以上の歴史から、現政権にとって、医療の効率を上げつつ質も向上させ、全体の標準化を図ることが当然の目標となったわけである。

 もちろん、医療というのは各病気や状態に対する診療の集合体としてあるわけだから、それぞれの病気・病態に応じた最も良い診療行為というものがあるはずだ。現在、考えられる最も良い診療行為を考えてみようというのが診療ガイドラインである。

 具体的には、ある診療行為について、今まで実施されてきた膨大な臨床研究をまとめ、研究の成果でどこまで分かっているかを検討する。同時に、国全体における経済的なインパクトや経済効率(どれだけお金がかかり、どれだけ効果が上がるか)に関して、しっかりとした分析が行われるのもNICEの診療ガイドラインの特徴である。多くの診療行為は、長い経験の中から見つけられてきたものなので、臨床研究をまとめるだけでは不十分である。また、すべてのことが経済効率だけで筋が通るわけでもない。

 そこで、実際に診療行為をしている様々な分野の医師や看護師、心理学者、一般の患者などに集まって議論をしてもらう。一般患者が「患者という視点で見る専門家」として参加しているのはNICEの大きな特徴である。

 こうして作成されたガイドラインはインターネットで公開し、学会から患者団体に至るまで、関心ある人すべての意見を募集する。その意見一つひとつをしっかりと検討した上で必要に応じて修正を加え、最終版を再度インターネットに公開する。

 ただし、同じ病名がついていても、患者さんの状態はそれぞれ異なる。診療ガイドラインはあくまで参考にすべきものであって、順守するものではない。これは絶対の原則である。

 これに対して、「それでは、国としてこれだけお金をかけて、誰も守らないのでは意味がないのでは? 」という質問をよく受ける。

 拘束力はなくても、NICEの診療ガイドラインは大きな影響を及ぼす。ガイドラインが出るたびに各新聞がトップで取り上げ、国中の専門家がその動向に注目する。写真は私の担当しているガイドラインについての新聞記事である。新聞社に情報が漏れ、あげくの果てに見当違いの記事を書かれてしまった。いつも正しい情報が報じられるとは限らないが、スパイじみた取材が行われるほど関心は高い。国民レベルで注目されることで、診療内容を変えていくことになるのも事実である。

 これにはいくつか理由がある。

 まず第1に、「国」の作った診療ガイドラインであること。診療ガイドラインの内容そのものは法律ではなく、拘束力もないが、国の予算は診療ガイドラインの進める方向に沿う。

 第2に、診療ガイドラインは診療ガバナンスの重要な柱の一つであること。各トラスト(病院運営母体)は第三者機関から評価を受け、その結果は公開されるし、政府の方針へもかかわってくる。この評価項目そのものに診療ガイドラインは入らなくても、診療ガバナンスへの努力は当然ながら評価される。診療ガイドラインに沿っていることは間接的に良い評価につながるわけである。

 第3に、一般・患者さんの関与があること。患者さん側の関与により、患者団体を通して、ガイドラインに対する一般の関心が高まるという利点もあるが、さらに重要なのは、一般の患者さんがNICE診療ガイドラインの存在を知っており、自分や知り合いが何らかの診断を受けたり症状がある場合、ガイドラインから情報を手に入れていることが多いという点である。そのためNICEの診療ガイドラインでは必ず、分かりやすい言葉で書かれた一般用のガイドラインが付属している。日常診療の中で、家庭医側、患者側双方が、一般的、あるいは標準的な診療がどんなものかということをNICEの診療ガイドラインから情報を得ているわけである。

 第4に、経済分析が必ず含まれていることである。たとえば、治療効果は高いが大変に高額な治療法がある場合、導入するべきかどうかは、病院経営者にとっても切実な問題である。そのとき、「儲かるかどうか」ではなく、「得られる治療効果が設備投資に見合うかどうか」という点が重要となる。社会主義的運営母体を持つ英国の保健制度だからこそ、儲けではなく「最大多数の人に最大幸福(健康)が得られるかどうか」という基準に基づいて、判断できるのである。

 第5に、方法論に対しての信用がある。できるだけ客観的な臨床研究の結果を検討した上で、特定の学会の独占ではなく、さまざまな科の医師、さまざまな場所で働く看護師、医療に関与するその他の専門家、一般の患者代表、そのすべての人に発言権が与えられ、一般公開の際には英国民であれば、だれでも意見することができる。こういった透明性、客観性をできるだけ確保し、出てきた結論をみんなで守ろうとするのは民主主義の基本理念である。それを支えるのは、ガイドラインの作成過程に対する信用であると思う(私自身も関与しているので、少々手前味噌であるが…)。

 まだまだあるが、英国でのNICEの診療ガイドラインのあり方は、一般的な診療ガイドラインとは少し異なり、国の政策に非常に近い位置を占めているということが、その性格や影響力を決めているわけである。

 注目に値するのは、一般社会との知識の共有により、より良いものを探していくという態度と、個人の自由と権利は、最大多数の最大幸福という全体の利益に対する義務を伴う、という本物の個人主義の在り方が根底にあることである。


■著者プロフィール
 森 臨太郎(もり りんたろう)、1970年神戸生まれ。医学博士、英国小児科専門医。日本での小児科研修を経て、オーストラリアにて新生児医療に携わり、英国にて疫学を修める。現在英国NICEの診療ガイドライン作成に携わっている。疫学研究、政策作り、日常診療と、さまざまな視点から英国医療と現政権の保健医療改革を観察している。

■ 掲載中の連載記事 ■
◆ 2005.8.26 新連載 英国医療事情】英国の医療制度、表と裏
◆ 2005.9.9 英国医療事情 連載第2回】無料の病院
◆2005.9.22 英国医療事情 連載第3回】英国の家庭医制度
◆ 2005.10.7 英国医療事情 連載第4回】病院運営を語るうえで欠かせない「トラスト」
◆ 2005.10.21 英国医療事情 連載第5回】英国医師にも上下関係がある
◆2005.11.4 英国医療事情 連載第6回】フライング・ドクター
◆2005.11.22 英国医療事情 連載第7回】英国の医師会
◆2005.12.6 英国医療事情 連載第8回】英国の医学会−−伝統と変化
◆2005.12.20 英国医療事情 連載第9回】英国の2大医学雑誌 LancetとBMJ
◆2006.1.13 英国医療事情 連載第10回】番外編 日本の医療
◆2006.2.9 英国医療事情 連載第11回】英国で医師として働くには:How To 医師登録
◆2006.2.21 英国医療事情 連載第12回】イエローカードと黒三角、医薬品の安全を支える多角的な報告システム
◆2006.2.28 英国医療事情 連載第13回】診療ガバナンス( Clinical Governance )
◆2006.3.9 英国医療事情 連載第14回】患者・一般参画 (PPI:Patient and Public Involvement)]

Information PR

ログインしていません

Close UpコンテンツPR

ログインしていません

もっと見る

人気記事ランキング

  1. 向精神薬になったデパス、処方はどうする? トレンド◎ベンゾジアゼピン系薬の安易な処方に警鐘 FBシェア数:1279
  2. 男性医師は何歳で結婚すべきか、ゆるく考えた 独身外科医のこじらせ恋愛論 FBシェア数:178
  3. JTに異例の反論を出した国がんが抱く危機感 Cadetto通信 FBシェア数:121
  4. 開業4年目の私が医院経営の勉強会を作ったわけ 診療所マネジメント実践記 FBシェア数:45
  5. インフルエンザの早い流行で浮かぶ5つの懸念 リポート◎AH3先行、低年齢でAH1pdmも、外来での重症化… FBシェア数:232
  6. 国主導で『抗菌薬適正使用の手引き』作成へ 政府の薬剤耐性対策アクションプランが始動 FBシェア数:19
  7. 真面目ちゃんが燃え尽きるとき 研修医のための人生ライフ向上塾! FBシェア数:0
  8. 味方ゼロ? 誰にも言えない病院経営の修羅場 裴 英洙の「今のままでいいんですか?」 FBシェア数:193
  9. 医師にも多い? 過敏性腸症候群(IBS)型便秘 田中由佳里の「ハラワタの診かた」 FBシェア数:344
  10. 輸液の入門書 医学書ソムリエ FBシェア数:0